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浦野家 (石川県珠洲郡狼煙村) |
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■浦野家(戸籍調査) 浦野家は、幕末から明治時代初期にかけて、能登半島の先端部である石川県珠洲郡狼煙村で暮らしていました。 江戸時代の間は通称を與平次(与平次)と名乗り、家督を相続していたようです。詳細については不明ですが、 明治時代に入ってからは、高祖父である浦野與平次の三男であった次策が家督を相続し、曾祖父次策が北海道に移住した ことによって、それ以降の浦野家は3世代にわたって、北海道で暮らしています。下の系図は、戸籍調査によって 判明した5世祖までの系図です(祖父より下3世代は省略)。幕末期以前の系図はこちらです。
次策(曾祖父)が狼煙村から北海道に転籍した最初の場所は函館とありました(明治41年3月2日)。 次策とりそ(曾祖母)が結婚したのは、渡道後の明治45年7月1日のことでしたが、これ以前に生まれていた 次策の長男・長女であるイチ及び朔郎の認知届が明治31年8月15日に小樽で出されていたため、おそらく 渡道後に最初に暮らしていた場所は小樽であったと思われます。
私の高祖父には「立三」という弟がいました。戸籍調査では、立三は出生日(天保12年6月30日)以外に 何一つ情報がなく、やがて、昭和33年に「年月日時場所不詳死亡」として除籍されていました。しかし後に、 この立三とは、幕末期のキリスト教禁令のさなかに、沢辺琢磨(坂本龍馬の従弟)、酒井篤礼(医師)とともに函館で 一時期宣教師ニコライからロシア正教の教義を学んだ医師、浦野大蔵(立三) であったことが分かり、同時に立三の子孫の方と連絡を取ることができました。 ◎幕末期以前の系図 狼煙村時代の菩提寺であった等覺寺の過去帳に残された記録から作成した、更に古い時代の浦野家の系図です。 江戸期の浦野家は代々医師を家業としていました。私の高祖父である浦野柳吉は、蘭方医の黒川良安から 種痘を伝授された郡方医師であったという記録が加賀藩史料に残されていました。
過去帳の記録は達筆な行書体で書かれていて、私は勿論のこと、住職も読めない字もありました。その中の1つが、 私の5世祖父である浦野柳齊の「齊」という字でした。それまでの調査で、戸籍に記載されていた高祖父の弟「立三」は、 (1)名前、(2)出生地、(3)出生年、(4)兄弟構成がいずれも同じであったため、極めて高い可能性で、 「浦野大蔵」であると考えていたのですが、唯一決定打を欠いていました。それは、戸籍では、高祖父の父の名前は 「浦野與平次」と書かれていたのに対して、高祖父の弟である「立三」の戸籍では、その父の名前が 「浦野柳齊」と書かれていたからです。 同じ父親ならば、「與平次」は屋号なので、俗名が「柳齊」であり、これが一致することを示す必要があったのです。 しかし、現地調査から戻った後に、地元の図書館で古文書に関する資料を調べていた時に、古文書に見られる所謂 「くずし字」として、上述の過去帳で判読できなかった文字が、「齊」という字である資料を見つけることができたのです。 また、與平次柳吉・立三兄弟には、少なくともこの他に、「釋道哲、釋教敬、釋尼妙光、釋遺教」の4人の兄弟(姉妹) がいたようです。この4人は皆、天保年間に亡くなっていました。 最初に亡くなったのは、釋道哲で天保8年(1837)のことですが、その後、天保13年から14年(1842〜1843) にかけて2年連続で、残りの3人と柳齊の両親が、たて続けに亡くなっています。天保8年は全国的な飢饉(天保の大飢饉)が 発生しており、4万5千人余の餓死者を出した凶作の年でした。また、天保13年の春からは数年にわたって、全国的に疫病が 流行したという記録があります。過去帳には、浦野家以外にも特にこの2年間は亡くなった方の記録が毎日のように並んでいましたので、 能登での災害のピークだったのでしょう。この時期に浦野家は家族の多くを亡くしました。與平次柳吉は15歳、立三は2歳だったときのことです。 |
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