サイトマップ 掲示板 浦野家の歴史と系譜

                       

浦野大蔵(立三)

宣教師ニコライ
 日露修好通商条約を締結したロシアは、安政6年(1859)に箱館(函館)に初めて領事館を設置し、領事やロシア正教の宣教師を着任させました。また、万延元年(1860)6月には、幕末のキリシタン禁制下で最初のキリスト教の聖堂が建てられました。ニコライはこの聖堂2代目の修道司祭に叙聖された人物です(右の写真)。

 ニコライが函館に着任したのは文久元年(1861)6月でした。当時の日本はキリシタン禁制下にあり、日本人に対する布教活動は禁止されていましたが、外国人居留地内では聖堂を建設し、外国人が礼拝を行う事は許されていました。ニコライは領事館員や来日しているロシア船員のための宗教行事を行う傍らで、近隣の住民と積極的に接触を重ねて日本語を習得し、更に日本を深く知るために儒学者・木村謙斎のもとで「古事記」、「日本書記」などの史書や仏典まで学びました。
ニコライ師

  ニコライのロシア正教の布教活動における日本人としての最初の信徒が、沢辺琢磨、酒井篤礼、浦野大蔵の3人でした。3人は正教の教義を学び、まだキリスト禁令化の日本で明治元年(1868)年5月に、ニコライから洗礼を受けたのです。日本が戊辰戦争によって戦禍にまみれているときのことです。

 3人の信徒を与えられたニコライは、日本での本格的な宣教開始の機が熟したとして、その承認を得るため、明治2年(1869)年に一旦ロシアに帰国し、明治4年(1871)3月に函館に帰還しました。ニコライは、函館に戻ると直ちに宣教活動に取り組み、対象地域を函館だけでなく、東北地方や東京にまで広げ、各地に伝教者を派遣しました。ニコライ自身は明治5年(1872)1月にロシア領事館の東京移転に伴って、領事館付き司祭という名目で宣教の拠点を東京に移してました。
 ニコライは日本ハリストス正教会の創立者であり、25歳で来日した1861年から亡くなるまでの50年間にわたる日記を残していました。その日記は1979年秋、ロシア・レニングラ−ドの国立中央歴史古文書館で見つかりました。

沢辺琢磨
酒井篤礼
浦野大蔵


浦野大蔵の生涯
 浦野大蔵は、ロシア正教の教義を学んだ日本で最初の使徒の1人でした。浦野大蔵は沢辺琢磨と酒井篤礼とともに、函館でニコライから洗礼を受けました。
 土佐藩士であった沢辺琢磨は、坂本竜馬の従弟にあたります。攘夷論者の沢辺は、函館で神明社の宮司となると、日本での布教活動を計画していたニコライの動静を見て、僧衣を身にまとって日本を窺がう者として、慶応元年(1865)某日、一刀両断をも覚悟で大刀を手挟み、ニコライの居室を襲ったそうです。しかし、そのときニコライによる正教の話を聞くに及び、沢辺の中で一転して正教を学んでみようという心境の変化が起こりました。熱烈な性格の沢辺は、親友の医師・酒井篤礼浦野大蔵を引き連れて3人でニコライの講義を聴くようになり、遂に3人は明治元(1868)年4月、ニコライにより洗礼を受けました。

 3人はパエル沢辺、イオアン酒井、イアコフ浦野として布教活動を行いました。後に、前二者沢辺と酒井はニコライの手足となり、神父として教会の発展のために尽力して、その人生を全うしました。上の3人の写真は平成元年(1989)8月4日の北海道新聞夕刊に掲載されたものです。
 浦野大蔵については、天保12年(1841)に能登の狼煙村で、医師・浦野柳齊の次男として生まれ、20歳前後に開港場の函館へ移住し、沢辺や酒井とともに正教に入信しました。洗礼を受けてまもなく、3人はひそかに布教する目的で函館から東北へ移りました。しかし、宮古に潜入した浦野大蔵だけは、やがて活動から離れ、医院を開き、医療活動に専念することになります。また、時期は不明ですが、浦野大蔵は曹洞宗に改宗し、大正5年3月18日に病没して、地元の江山寺に葬られています。戒名は「珠洲院英徳居士」とあることから、自分の故郷が「珠洲」であることを最後まで忘れていなかったと窺えます。

 尚、いくつかの文献には、浦野大蔵は宮古に移住後に「立三」に改名したようであるとの記述が見られますが、これは誤りです。私の高祖父(浦野與平次)の戸籍には、函館へ移住する前の家族の記録が記されていますが、ここには高祖父の弟として、「立三」と書かれています。つまり、元々戸籍上の名前は「立三」であり、やがて「大蔵」という名前を名乗ったといえます。

 ニコライの日記には、明治26年の東北巡回日記の6月2日に次のように記されています。

 「宮古へあと一里半の金浜村(40戸)でイヤコフ浦野の家に立ち寄った。浦野は村へ入るずっと前まで出迎えに来てくれた。浦野は、時間の順でいえば日本のキリスト教の3番目の信者である。彼は沢辺、故酒井と一緒に洗礼を受けた。・・・(中略)・・・ しかし、浦野の宗教的感情を呼び戻そうと努力したが、全く関心を示さない。彼の家には7人の子供と妻がいる。彼自身は今53歳。家は自分のもので、医業によって暮らしているという。壁には聖使徒イヤコフのすばらしいイコンが、まるでただの絵のようにかかっている。これはA・P・トルストイ伯爵の寄贈して下さったイコンで、私が1871年にロシアから持ってきたものだ」

 その時の浦野大蔵(立三)は改宗せざる得ない事情があったのか、話をそらし多くを語ることなく、山田へ向かうニコライを浜でいつまでも見送ったそうです。
 浦野大蔵(立三)が持っていたイコン(右の写真)は、キリスト、聖人などを描いた礼拝用の絵で、木製の額に入れられ、板に青、金、白などの法衣をまとった聖人が色鮮やかに描かれています。このイコンは100年以上も前にロシアで作られたもので、浦野立三とニコライを結ぶ唯一の絆として、今もなお代々、金浜の浦野家に残されています。

 金浜村に移り住んだ浦野立三は、人望も厚く、村の江山寺の住職と並んで指導者的存在だったという記録をいくつかの資料に見ることができます。立三は「郷に入っては郷に従え」と何時も言っていたそうです。立三の孫にあたる浦野要太郎さんは、立三が生前に、「(正教から曹洞宗に)改宗したのは郷に入っては郷に従ったまで」と話していたことも聞いていたと云われています。

 浦野立三がなぜ狼煙村から函館へ移ったのかについては、依然分かっていませんが、歴史的な背景を考慮すると、宮古で開業するまでは、立三が近代医学を学ぶ機会は函館など開港場となって場所の他になく、駐在していたロシア人医師から指導を受けるためだったのではないかと推測できます。


<参考文献>


                       

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