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菩提寺の訪問と過去帳の記録 |
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そこには2人の名前が書かれていました (注:後日、過去帳に記載されていた明治期の先祖は4人だったことが分かりました)。1人は明治7年に浦野与平次長男として、「難船ニテ死ス、死人不見」という覚え書きがありました。これは浦野次策(曾祖父)の兄でしょうか。そして、北海道に渡る船が難破したのでしょうか。もう1人は明治27年に浦野与平次母が亡くなっているという記述でした。時期的に、私の高祖父の母(5世祖母)のようです。 この地方からの北海道移住についても住職にお尋ねしたところ、この狼煙から約50世帯ほどが、明治時代に少しずつ北海道へ船で渡ったことを教えてくださいました。具体的な時期は分かりませんが、きっとその中に当家の先祖もいたのでしょう。 住職は持ってきた古い書類を取り出して、私たちの前に見せてくれました。等覺寺の過去帳です。明治時代に至るまで4冊ほどに分かれていますが、文化4年(1807)からの記録が残された大変貴重な資料です(上から3番目の写真)。それから住職は約2時間ほどにわたって、全ての過去帳を1枚1枚調べてくださいました。文化年間に亡くなった、資料に残る最も古い先祖から、明治時代に亡くなった先祖まで、直系と傍系を含めて16人の当家先祖が分かりました。以下は等覺寺の過去帳に記された当家先祖の情報(後日、再び調べた内容を含む最新版)です 。また、この情報をもとに作成した系図はこちらです。
当家に限らず、過去帳を見ていくと、突然非常に多くの人が亡くなっている時期が何度かあることに気がつきました。住職の話では、 この辺りは農家が多かったので、飢饉や伝染病などが流行ったのかも知れないとのことでした。 先祖の法名や没年月日以外にも、いくつか明らかになったことがあります。1つは、当家は江戸時代に代々「与平次」という通称を名乗っていたことです。 もう1つは、当家は江戸時代に苗字を持っていたということです。江戸時代に公に苗字を名乗っていたのは、武士と一部の有力農民で、それ以外は基本的には公式に苗字を名乗ることは許されていませんでした。この過去帳には、所々に「浦野与平次」と明記され、時には「浦野」と苗字だけの記載になっています。勿論、過去帳は公式文書ではありませんが、他の方々はこのような表記ではなく通称名だけの記載となっています。 農民階級の人間が苗字を持っている場合には、理由は千差万別あるようですが、代表的なものに、武将が戦いに敗れ、追っ手を逃れて帰農した際、子孫に苗字と一緒にその家の由緒を言い伝えるということが実際に行われていたようです。
そして、この台帳に当家の先祖の名前が記載されていたのです。右の写真がこの台帳のあるページを開いた様子ですが、 左側のページの最初(写真中央)に「拾弐石」「与平次」という記述があるのが分かります。 当時の寄付は現在のようにお金ではなく、お米で納めていたのです。これまでは戸籍調査や過去帳などで当家先祖の出生や没年など、 いわゆる生存の記録しか見ることができませんでしたが、約200年前に私の先祖が実際に生活していたという記録を見ることができて、 何だか嬉しい気持ちになりました。 ※ちなみに、12石とは約1.8トンに相当します。 ■墓石について 等覺寺の住職に当家のものと思われる墓石について伺ってみました。この地方では自分の土地の中に先祖代々のお墓を立てるのが一般的であり、道を歩いていると、いたるところにお墓が点在しているのが分かります。私は、土地台帳から墓所の住所を突き止めたこと、番地区分地図から現地を調べたところ、まさしく該当する場所に倒れている墓石を発見したこと、そしてその墓石の形状や周囲の状況などを詳しく住職に話しました。住職は50年以上等覺寺にお務めになっているものの、残念ながらこのお墓については聞いたことがないということでした。 しかし、墓石の状況に対しては、有益なご意見を頂くことができました。まず、墓石が長期間にわたって倒れたままになっている状況から、少なくとも狼煙町の住民の方のお墓ではなく、流出した人のものであろうということです。もし狼煙町の方のものならば、倒れて苔まみれになった墓石を放っておくはずはありません。さらに、番地名に合致する場所にあるという状況から考えて、やはり当家の墓石であることはほぼ間違いないといえます。また、屋根付きの墓石であることについては、もしそれが農民のものであれば、それはかなりの富農であったことが予想できるとのことでした。住職曰く、基本的に江戸時代では、多くの一般農民は、海岸や道端の石を墓石として使っていたというのです。そんな中で、しっかりとした直方体の墓石があり、しかも屋根が付いているというお墓は、一般の農民階級のものとしては普通ではないように思えるということでした。一体、浦野家はこの狼煙で一体どんな暮らしをしていたのでしょう。 <参考文献>
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