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菩提寺の訪問と過去帳の記録

■等覺寺へ
 狼煙町の西、丘をはさんで横山の反対側にある外浦に面した斜面に等覺寺はあります(一番上の写真)。禄剛崎灯台から続く遊歩道は、横山で一旦、 舗装された道路に出ます。そこからは北側の海に向かって真っ直ぐ丘を降りていく道になり、かなりの急斜面に足元の注意が必要となります。途中、 急に道が左に折れ曲がる所では、川浦町の風景を見下ろすことができました(上から2番目の写真)。等覺寺はそんな斜面の中腹ほどの、 外浦を一望できるところに位置しています。

 等覺寺は浄土真宗東本願寺(真宗大谷)派のお寺です。古くは永久2年に天台宗の傳善という者が川浦町に等覺院という一宇を建立したことに始まるらしく、 第13世願了のときに、本願寺の蓮如上人に帰依した(大永4年)ことから、法名を了善と改めて、その後代々続いているとのことです。 当家は北海道に移住した後、少なくとも浦野亀次郎(祖父)の代から真宗大谷派の檀家になっていましたが、ここがルーツになっていたのです。

過去帳の記録
 等覺寺の中のお部屋へ通されると、そこは中央にいろりがある茶室のようでした。初めてお会いするということで、 少し緊張した面持ちで正座しながらしばらく待っていると、ご住職が古い書類の束を持ってお部屋に来られました。ご挨拶を済ますと、 これまで私が調べた資料を見ていただき、全ての事情を説明しました。すると住職は1枚のメモを出し、私たちがここに来る前に、 あらかじめ調べてくださったという明治時代の当家の先祖の記録について話してくださいました。

 そこには2人の名前が書かれていました (注:後日、過去帳に記載されていた明治期の先祖は4人だったことが分かりました)。1人は明治7年に浦野与平次長男として、「難船ニテ死ス、死人不見」という覚え書きがありました。これは浦野次策(曾祖父)の兄でしょうか。そして、北海道に渡る船が難破したのでしょうか。もう1人は明治27年に浦野与平次母が亡くなっているという記述でした。時期的に、私の高祖父の母(5世祖母)のようです。

 この地方からの北海道移住についても住職にお尋ねしたところ、この狼煙から約50世帯ほどが、明治時代に少しずつ北海道へ船で渡ったことを教えてくださいました。具体的な時期は分かりませんが、きっとその中に当家の先祖もいたのでしょう。

 住職は持ってきた古い書類を取り出して、私たちの前に見せてくれました。等覺寺の過去帳です。明治時代に至るまで4冊ほどに分かれていますが、文化4年(1807)からの記録が残された大変貴重な資料です(上から3番目の写真)。それから住職は約2時間ほどにわたって、全ての過去帳を1枚1枚調べてくださいました。文化年間に亡くなった、資料に残る最も古い先祖から、明治時代に亡くなった先祖まで、直系と傍系を含めて16人の当家先祖が分かりました。以下は等覺寺の過去帳に記された当家先祖の情報(後日、再び調べた内容を含む最新版)です 。また、この情報をもとに作成した系図はこちらです。

 法名 没年月日 名前・続柄 覚書等
 釋尼妙栄 文化4年9月12日 与平次妻 狼煙村
 釋尼妙證 文化11年2月24日 与平次母
 釋道哲 天保8年10月4日 浦野子
 釋教敬 天保13年9月11日 与平治子
 釋尼妙光 天保13年9月27日 浦野子
 釋硯説 天保14年6月17日 浦之父
 釋遺教 天保14年6月27日 浦之子
 釋尼寳玉 天保14年8月19日 浦野母
 釋尼妙音 喜永元年7月26日 浦野与平次おば
 釋浄楽 喜永6年4月17日 与平次孫
 釋無覚 安政5年7月20日 与平次柳○
 釋尼浄圓 万延元年4月14日 浦野与平次子
 釋柳泰 明治7年8月21日 浦野与平次長男 難船ニテ死ス、死人不見
 釋尼妙恭 明治19年8月5日 浦野与平次妻
  明治20年 浦野與平次 此人東都ニ死去ス
年令五九才
 釋尼示法 明治27年9月13日 浦野与平次母

 当家に限らず、過去帳を見ていくと、突然非常に多くの人が亡くなっている時期が何度かあることに気がつきました。住職の話では、 この辺りは農家が多かったので、飢饉や伝染病などが流行ったのかも知れないとのことでした。

 先祖の法名や没年月日以外にも、いくつか明らかになったことがあります。1つは、当家は江戸時代に代々「与平次」という通称を名乗っていたことです。
 もう1つは、当家は江戸時代に苗字を持っていたということです。江戸時代に公に苗字を名乗っていたのは、武士と一部の有力農民で、それ以外は基本的には公式に苗字を名乗ることは許されていませんでした。この過去帳には、所々に「浦野与平次」と明記され、時には「浦野」と苗字だけの記載になっています。勿論、過去帳は公式文書ではありませんが、他の方々はこのような表記ではなく通称名だけの記載となっています。 農民階級の人間が苗字を持っている場合には、理由は千差万別あるようですが、代表的なものに、武将が戦いに敗れ、追っ手を逃れて帰農した際、子孫に苗字と一緒にその家の由緒を言い伝えるということが実際に行われていたようです。


■御堂再建檀那志帳
 等覺寺はその長い歴史の中で、文化7年(1810)に一度大きな御本堂の再建を行っています。数多くの史資料にもこの事実は掲載されていて、 それまで本寺は外浦の海辺にあったらしいのですが、文化7年に境内地が海浸したために、海辺から現在地へ移動することになったそうです。等覺寺には、そのときに地域住民から本堂再建の寄付を募った寄付台帳が「御堂再建檀那志帳」という名前で現存していたのです。

 そして、この台帳に当家の先祖の名前が記載されていたのです。右の写真がこの台帳のあるページを開いた様子ですが、 左側のページの最初(写真中央)に「拾弐石」「与平次」という記述があるのが分かります。 当時の寄付は現在のようにお金ではなく、お米で納めていたのです。これまでは戸籍調査や過去帳などで当家先祖の出生や没年など、 いわゆる生存の記録しか見ることができませんでしたが、約200年前に私の先祖が実際に生活していたという記録を見ることができて、 何だか嬉しい気持ちになりました。
※ちなみに、12石とは約1.8トンに相当します。


■墓石について
 等覺寺の住職に当家のものと思われる墓石について伺ってみました。この地方では自分の土地の中に先祖代々のお墓を立てるのが一般的であり、道を歩いていると、いたるところにお墓が点在しているのが分かります。私は、土地台帳から墓所の住所を突き止めたこと、番地区分地図から現地を調べたところ、まさしく該当する場所に倒れている墓石を発見したこと、そしてその墓石の形状や周囲の状況などを詳しく住職に話しました。住職は50年以上等覺寺にお務めになっているものの、残念ながらこのお墓については聞いたことがないということでした。

 しかし、墓石の状況に対しては、有益なご意見を頂くことができました。まず、墓石が長期間にわたって倒れたままになっている状況から、少なくとも狼煙町の住民の方のお墓ではなく、流出した人のものであろうということです。もし狼煙町の方のものならば、倒れて苔まみれになった墓石を放っておくはずはありません。さらに、番地名に合致する場所にあるという状況から考えて、やはり当家の墓石であることはほぼ間違いないといえます。また、屋根付きの墓石であることについては、もしそれが農民のものであれば、それはかなりの富農であったことが予想できるとのことでした。住職曰く、基本的に江戸時代では、多くの一般農民は、海岸や道端の石を墓石として使っていたというのです。そんな中で、しっかりとした直方体の墓石があり、しかも屋根が付いているというお墓は、一般の農民階級のものとしては普通ではないように思えるということでした。一体、浦野家はこの狼煙で一体どんな暮らしをしていたのでしょう。


<参考文献>
  • 石川県珠洲郡誌 (臨川書店・石川県郷土誌業刊)
  • 日本地名大辞典17 石川県 (角川)
  • 石川県の地名 日本歴史地名大系17 (平凡社)


                       

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