サイトマップ 掲示板 浦野家の歴史と系譜

                       

狼煙村の医師

浦野家代々の家業は医師
 等覺寺住職のお話や現地の郷土史などによると、狼煙横山の住民のほとんどは百姓をしていた。それでは、浦野家の先祖も百姓をしていたのでしょうか。
 ところが、平成17年5月15日に宮古浦野家の方と初めて電話でお話をしたときに、先祖は医師を家業としていたらしいという情報を入手しました。資料に残されている記述から浦野立三は間違いなく医者だったのですが、伝承では、「狼煙村時代、浦野家は代々医者で、加賀藩医をしていた」というのです。

 勿論、この段階では、あくまでも伝承ですので、裏付けとなる証拠が必要です。しかし、私はこの話を聞いた時に、もし先祖が医者だったとすれば説明が付く点がいくつかあることに気が付きました。
  • 江戸期の農民階級にしては、先祖の墓があまりに立派すぎる。
  • 狼煙村の場合、庄屋級の旧家は郷土史に記録が残されているが、当家の記述は見当たらない。
  • 等覺寺の本堂再建(文化7年)に際して、12石(約1.8トン相当)もの寄付を行っているが、それ相当の農地を所有していた記録がない。
  • 江戸時代の過去帳の記載内容から、当家は当時から既に「浦野」という苗字を持っていた。(他家で苗字が記載されている記録はほとんど見当たらなかった。)
 以上の点から、当家は多少なりとも何らかの由緒があった家であり、且つ農民ではなかった可能性もあると言えます。私は当初、農民としての記録が書かれている文書を調べていましたが、医者という路線でも調査を進めていく必要が出てきました。


郡方医師の浦野柳吉
 平成17年5月24日、金沢市立玉川図書館近世資料館の調査により、「加賀藩史料幕末篇下巻」に、郡方医師として「狼煙村」の「浦野柳吉」という人物がいた記録が残っていたことが分かりました。以下は該当箇所を抜粋したものです。これによると、浦野柳吉は、慶応元年(1865)4月に蘭方医黒川良安から種痘の方法を伝授された郡方医師ということが分かります。また、これは公文書ですので、「浦野」という苗字を公称していたようです。

慶応元年四月。御郡方の医師種痘を伝習する手続を告ぐ。

〔御用鑑〕
 於御郡方致医業族者共之内、種痘致度者有之族はゞ、右種痘之法御医師黒川良安等より致伝習、可致種痘旨等、去戌年申渡置候通に候。就夫直に右良安等方に罷越、種痘致伝習候者も可有之族へ共、左候而者縮方も難相立指支候条、以来種痘 致伝習候者は、拙者共に可願聞、左候得者其趣入紙面相渡候条、金沢種痘所に可致持参候。且是迄直々良安等方に罷越習受候者共、早々名前入用候条可書出候。右之趣夫々不相洩様可申渡候、以上。

     丑 四 月                             三州御郡奉行

種痘伝授医者
丑三月 小木村 山本耕斎 丑四月 鵜川村 新田栄斎
丑四月 鵜川村 内藤孝元 宇出津村 北 右京
宇出津村 源見玄門 鵜川村 内藤鎌斎
同五月 輪島町 春田耕庵 同七月 北方村 服部祐貞
同十月 狼煙村 浦野柳吉


 当初、この資料を見た時点では、高祖父以前の先祖の俗名が分からなかったので、柳吉がどの世代の先祖に当たるのかを推測しました。
 黒川良安が柳吉に種痘を伝授したのは慶応元年(1865)とありますが、過去帳によると、5世祖父の浦野與平次は、これ以前の安政5年(1858)に亡くなっていますので、この「柳吉」とは、私の高祖父(立三の兄)であると考えられます。

 戸籍や過去帳には、この浦野與平次が戸主だった時代の記録が残されていました。
 出生は、文政12年(1829)であり、明治20年(1887)に亡くなっています。右上の2枚の写真は過去帳に記載された、この浦野與平次に関する記録です。
 実は、浦野柳吉に関する資料の存在を知って、しばらく気が付かなかったのですが、なんと過去帳には先祖の俗名として「柳吉」と書かれていたのです(右側の写真)。過去帳には、「此人、東都ニ死去ス」、「年齢五九才」という覚書がありました。尚、戸籍に記載された出生年と過去帳にある没年から計算しても、59才という年齢も矛盾はありません。
 柳吉も立三と同様に、近代医学を学ぶために様々な土地へ出向いていたのかもしれません。


浦野柳齊(柳吉・立三の父)
 戸籍上、高祖父の父は、「浦野與平次」となっていました。一方で、高祖父の弟である立三の戸籍では、その父は「柳齊」という名前になっていました。おそらく通称が「與平次」で、俗名が「柳齊」だったのではないかと思います。高祖父の父の俗名が「柳齊」であることが分かれば、私の高祖父と浦野立三が本当に兄弟であることが確定できるのです。

 等覺寺の過去帳に書かれた先祖の記録の中に、以下の記述がありました。

  釋無覚  安政5年7月20日  与平次柳○
  (注:○の部分の文字が判読不能)

 この○の部分の文字については、私や妻は勿論のこと、住職も分からないということでしたが、平成17年6月11日、地元の図書館で古文書に関する資料を調べていた時に、古文書に見られる所謂「くずし字」として、上の○の部分に該当する文字が、「」という字である資料を見つけることができました。

 過去帳に記載されていた字は、まさしく右図の「済(濟)」という字のくずし字の作りの部分とそっくりです。最初に過去帳を見たときには、どうみても「齊」という字など想像もできず、何とか読めるとすれば、「系」というような字に近いような気がしていました。浄土真宗東本願寺派の過去帳では、上記のように記述の形式が、 「@法名、A没年、B戸主、C続柄」となっていますので、もしかしたら今では使われなくなった親族の呼称で「柳系」というものがあるのではないかという可能性を探っていました(例えば、息子の子のことを「子」と「系」を合わせて「孫」と書くようなイメージです)。
 しかし、実際にはそのような呼称は存在しなく、困惑していたところ、資料で「齊」のくずし字を見つけたのです。また、これに関連して、過去帳の記載の仕方には特徴がありました。記述の形式は「B戸主、C続柄」となっていますので、例えば、戸主の母親が亡くなれば、「与平次母」と書かれていますが、 戸主本人が亡くなった場合には、Cの欄には、戸主の俗称が書かれているのです。従って、上述の「釋無覚(与平次柳齊)」は当時、浦野家の戸主であった人物であるといえます。
 さらに、過去帳の記録を年代的に整理した結果、与平次柳齊は、まさしく與平次柳吉・立三兄弟の父であることが分かりました。

 これをもって、私の実家のある北海道の浦野家と宮古の浦野家は、江戸期の先祖を同じくするという証拠がようやく取れたことになります。石川、北海道、岩手という距離を置きながらも、150年もの時間の壁を越えることができたのには、移動や情報の伝達が簡便になった今の時代ならではの成果を感じてなりません。

 ちなみに、「斉」(旧字体は「齊」)と、「斎」(旧字体は「齋」)は、全く異なる意味を示す別の漢字のようです。具体的な例を挙げますと、「一斉に」という言葉を「一斎に」とは書くことはなく、逆に、「書斎」を「書斉」と書くこともありません。
 当家の先祖である浦野柳齊は、戸籍上でも、過去帳においても双方共に、下が「二」の「齊」であります。


<参考文献>
  • 加賀藩史料 幕末篇下巻 (財団法人前田育英会・昭和33年) 
  • 覚えておきたい古文書くずし字200選 (柏書房編集部・2001年)



                       

・このサイトは基本的にリンクフリーですが、もしご面倒でなければ一報いただければ幸いです。
・ブラウザは
Internet Explorer Version6.0 以上の使用を推奨します。

Copyright (C) 2005 URANO. All Rights Reserved.