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狼煙町へ

■須須神社
 平成17年5月5日、10時間近くに及ぶ運転の末、珠洲市飯田町までやってきました。この日は移動だけと思っていたのですが、 まだ日が高かったので、宿先に荷物を置いて一休みを終えると、現地の下見も加えて、珠洲地方をドライブすることにしました。 三崎町を抜けると、そこには能登の先端部から見渡せる日本海が広がっていました。飯田町から狼煙町まで2/3ほど来たところ、 三崎町寺家の北端には、旧県社であるという須須神社がありました。須須神社の歴史は古く、 崇神天皇のときに創建されていて、当初は狼煙の山伏山に鎮座していたのですが、天平勝宝年間(749−757)に現在の位置に 移ったそうです。須須神社についてはこちらに詳しくまとめています。
 神社の中を歩いてみると、道路に面したところに立っている大きな鳥居で突然驚かされました。下の写真右側にありますが、この鳥居の寄進人の方の名前が刻まれていました。なんと「札幌市」 と書かれています。奥能登にひっそりとある神社の鳥居を札幌の方が寄進されたのかと考えると、ますますこの珠洲地方と 北海道の深いつながりを感じます。私と同様に遠い先祖が珠洲地方の出身だったのでしょうか。石川県の近代史を調べると、 明治30年頃の石川県民の北海道移住者の数は珠洲地方が最大だったそうです。



須須神社
石川県珠洲市三崎町寺家

■狼煙町
 三崎町を過ぎ、北上していくと、海岸沿いを峠越えのように曲がりくねった道を行くことになります。 所々に原子力発電所の建設反対を訴える看板が見られました。数年前まで珠洲原発を誘致するという話が 持ち上がっていたらしいのですが、住民の多くの反対運動があったようです。そんな看板を横目にさらに北上すると、 いよいよ狼煙町に入ります。「珠洲市狼煙町」と書かれた標識が目に入りました (一番上のの写真)。ついにここまでやってきました。先祖が暮らしていた所です。戸籍でこの地名を知って以来、狼煙ってどんなところなんだろうと毎日のように想像をめぐらせていました。 車を道路脇に止め、しばらくそこから見える風景を見ていました。小さな港のそばで、潮の香りがしました。 とても静かで寄せては返す波の音が心地いい。海に背を向けると、狼煙の集落が見えました。民家の壁の木板が深く黒ずんでいて、 長い長い時の流れを感じさせてくれました。

 狼煙が能登半島の北東の角に位置していることを象徴するように、道は北向きから西向きへ直角に折れ曲がり、 この角を中心とするように町が存在しているようでした。道路を西へ少し行くとバス停がありました。車を降りて見てみると、 「能登横山」と書かれていました。私の先祖が暮らしていた場所は、どうやらこの「横山」という所らしいのです。当時の住所と地図上の場所との照合は翌日、市役所に行って調べるとして、とりあえずこの辺りを少し歩いてみました。道路と北側の海の間には東西に伸びる丘があって、斜面を上っていくと、 とても古いものと思われる神社の鳥居が目に入りました(上から2番目の写真)。鳥居には「丹生神社」 と書かれていました。丹生神社は狼煙村時代の村社です。 伝承では、昔は海の岩上にあったらしいのですが航海の船に祟ることがあったため、神告によって現在の地に祭ったということです。

 先祖もきっと参拝に訪れたことがあるだろうと思いつつ、鳥居をくぐると、 一台の軽トラックが坂を上がってきました。窓からおじさんが顔を出し、「どうしました?」とちょっと不思議そうに尋ねてきました。 狼煙の住民でない人間がこんな所を歩いているのですから、不思議に思うのも無理はありません。事情を説明すると、 海岸からの景色を見るといいと御親切に私たちを丘の上まで連れて行ってくれました。丘の向こうは、東側の海岸とは異なり、 断崖絶壁が眼下に広がっていました(上から3番目の写真)。秋には空が高くなって、佐渡島も見えるそうです 。

 この横山地区は狼煙町に属しています(上から4番目の写真)が、禄剛崎灯台のある北東の角にある集落から少しだけ西に位置していて、 2つ集落の間が一瞬途切れています。世帯数としては横山の方がさらに少ないような印象を受けました。 狼煙町は高齢化と過疎化が急激に進んでいて、戸口や窓に板を打ち付けられた家屋をたくさん見つけることができました。


■川浦町
 狼煙町から能登半島を戻るように西へ行くと、川浦町へ出ます。川浦町と狼煙町は、上に述べた東西方向の丘をはさんで分かれています。 禄剛崎灯台付近では、この丘を北へ越えると断崖絶壁でしたが、西へ行くと海岸沿いの平地が現れ、ちょうど横山地区と背中合わせになるように 広がる集落が川浦町です。江戸時代から明治時代初期にかけては製塩が盛んで、多くの塩釜や製塩家があったということです。 外浦に面した町だけに、ズラリと並ぶ舟小屋を見ることができました。


■東山中町
 東山中町(当時は東山中村)は、曾祖母りその実家である坂上家のあった所です。川浦町からさらに西へ折戸町まで来ると、 そのまま海岸沿いを輪島方面へ行く道と、内浦の正院町へ出る道の分岐が現れます。東山中町はこの分岐を南へ行き、 山を登ったところに位置しています。江戸時代からの農村地帯で、1820年代には40人ほどの百姓が暮らしていたらしいです。 坂上家はこの中にいたに違いありませんが、現在はこの近隣に坂上という姓の方がいないことから、一家で移住してしまったのでしょう。 道路沿いには東山中と書かれたバス停がポツンと佇んでいるだけで民家はほとんど見られませんでした。

<参考文献>
  • 石川県珠洲郡誌 (臨川書店・石川県郷土誌業刊)
  • 日本地名大辞典17 石川県 (角川)
  • 石川県の地名 日本歴史地名大系17 (平凡社)



                       

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