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須須神社

■須須神社の名前
 須須神社は寺家集落の北端に鎮座している旧県社です。現在は須須神社と称する場合は、一般に高座宮金分宮の雨宮を指しますが、須々神社などとも書くこの社号そのものは「延喜式」神名帳を除くと、江戸時代、承応2年(1653)書写という「三州式内等旧社記」に「須々神社式内一座、三崎権現と称す、祭神高倉彦神故に高倉宮と称す」とあるのを初見とします。
 一説には神名帳記載の須須神社は古く須須ケ嶽(鈴ヶ岳)に海上交通を守護する須須之神を祀る社として成立し、のち山岳信仰もみられ、山伏山の山名も生じたと云われています。また北陸鬼門の鎮守として崇敬されました。「三代実録」貞観15年(873)8月4日条に従五位上に昇叙したとみえる「高倉彦神」が現寺家の須須神社で、高座宮の祭神は渡来系氏族高倉氏の氏神と推定されて、隣接の金分宮は室町初期に起こった修験系の神社ではないかと云われています(珠洲市史)。
 室町時代には高座宮・金分宮を併せて珠々権現とも称し、近世には三崎権現とも記されていました。別当は天台系の高勝寺でした。祭神は高座宮に高倉彦神のほか天津彦彦火瓊瓊杵命、金分宮に高倉神之后神や木花開耶姫などがあげられます。

 右の写真の1番上は須須神社の高座宮鳥居で、上から2番目は須須神社付近の寺家集落の風景です。
須須神社・高座宮
石川県珠洲市三崎町寺家

■須須神社の歴史
 万治3年(1660)の須須神社縁起(須須神社文書)によれば、須須神社は崇神天皇のときに創建され、欽明天皇2年・養老元年(717)・康平4年(1061)に再建されたと伝えられ、文政7年(1824)の社号帳では初め山伏山に鎮座していたのですが、天平勝宝年間(749−757)に現在地へ移ったと云われています。
 文治2年(1186)8月の高勝寺結衆等解状案に「高座宮」とあり、高勝寺とみられる結衆らが能登国司に、宮の経溝田を方上保司の某らが押領したと訴えています。輪島市ハ幡寺蔵の大般若経のなかに建永元年(1206)・2年に「高座宮住僧珍慶」が書写したものが含まれています。また「白山之記」に白山九所小神の一つとして「高峅、能登鈴モスノ白山」とみえ、毛須(雲津)の白山社を支配下に置いていました。文和元年(1352)3月11日の高座宮本経田田数注文によれば、所在地の方上保に隣接する正院郷内に本経田二町四段を所有していたようです。さらに、明応2年(1493)5月14日の高座宮借田注文案によって、神田一千刈をもって「こうり祭」など37の神事を行っていたことが分かります。文明7年(1475)10月28日の増清透置文には宮司神主猿女氏の名がみえます。
 金分宮については、同10年8月28日の高座宮神主友永置文に「金文」とみえ、以後金文宮として登場します。また金文大明神とも称しています(永正14年5月19日高勝寺衆徒等起請文案)。尚、この「金文」は大和金峯山が転訛したとする説もあります。

高座宮拝殿 高座宮本殿

 別当寺高勝寺は寺家の大寺と俗称され、貞享2年寺社由緒書上によれば、寛弘元年(1004)に恵心僧都の弟子良澄が建立したと云われていますが、寺号の初見は応安7年(1374)12月の増長秀粳穀施入状です。平安末期に建立された妙成就院(承安5年2月28日能登国司庁宣)を核に諸堂が整備され、高座山高勝寺の成立をみるに至りました。本尊は大日如来です(大永3年5月16日小倉吉信什物寄進状)。文明9年6月14日の高勝寺免田指出や永正元年(1504)12月28日の高勝寺下地指出によると、高勝寺は本堂・妙成就院・釈迦堂・神宮寺・観音堂・十二坊・学頭坊・宝珠院・増長坊持仏堂・例時堂の諸堂および院坊を擁していました。このうち十二坊は松本坊(同10年4月2日神保元康判物)などの十二の坊からなり、近世の所伝では宝珠院下の六坊(福寿坊・金蔵坊・十地坊・増長坊・仏眼坊・松本坊)と延命院下の六坊(実相坊・東之坊・福泉坊・円竜坊・大乗坊・山本坊)から構成されていたと云います。宝珠院グループは実名に良の字を用いたために良門徒とよばれ、談義所で四道を行い、延会院は同じく快門徒とよばれ、密道場で祈祷を専らとして、増長坊は学頭でした(須須神社誌)。

 年中行事を寛正6年(1465)2月28日の高勝寺十二房供免田用途注文によってみると、2月の常楽会・大師講、3月の童竪義・法華問答講三十座、4月の舞童、7月の児大衆参籍・日夜不退勤行、8月の舞童のほか、四季の法華八講、毎月28日の大日講、毎朝の大般若経転読などがあります。これら講会は供免田1700刈の年貢で運営されていました(前掲高勝寺免田指出)。永正元年の11月臨時祭には、能登守護畠山慶致から六斗六升六合の下物米がありました(前掲高勝寺下地指出)。前術の神保元康判物によれば、守護畠山氏の祈願所として諸役免除などの外護を得ていたようです。天正5年(1577)11月に衆徒は能登を攻略した越後上杉氏に対し、寺領など46貫文の地を旧来どおり安堵するよう求めています(高勝寺衆彼等言上状案)。次いで能登を領した前田利家は同12年3月6日に高勝寺増長坊へ30俵の地を(前田利家印判状)、同14年2月13日に五町(草高75石)を寄進しています(前田利家判物案など)。

 近世には「金文・高倉」「三崎権現」「三崎明神」などとよばれ、神主大宮(猿女氏)・社増増長坊が存続しました。社領75石は当初25石を高勝寺、50石を神主大宮が支配しました。寛文元年(1661)には神主大官分より25石を割き、社堂修理料としましたが(御領国神社来歴)、同3年から同料はすべて高勝寺が管轄することになりました(須須神社誌)。高勝寺分は寺家村、神主大宮分は粟津村、社堂修理料は宇治村・引砂村に所在しました(同書)。前田家による社堂の造営には慶長19年(1614)の高座宮再興に始まり、寛永10年(1633)の同宮内作事、同11年の金分宮、同16年の観音堂、寛文2年の講堂再興があります(貞孝二年寺社由緒書上)。明治2年(1869)3月神仏分離のため高勝寺は住持が復飾し廃寺となりましたが、同8年3月檀家の招請により金沢より翠雲寺(天台宗)が移転、高勝寺の旧堂を使用しました。同17年の火災で旧堂のほとんどは焼失してしまいましたが、仏像はその難を免れました。社蔵の木造男神像五体は国指定重要文化財で、本社社叢は国指定天然記念物です。また奥宮のある山伏山社叢も県指定天然記念物で、いずれもスダジイ、タブが繁茂し、照葉樹林の北方的限界を示しています。県内に遺存する最古の年次をもつ承安5年(1175)2月28日の能登国司庁宣以下73点の所蔵文書は県指定文化財です。

■須須神社奥宮
 奥宮は狼煙町の山伏山山頂に鎮座している村社です。祭神として美穂須々見命、武甕槌命、經津天命、天津兒屋根命、姫大神の3柱を祭っています。祟神天皇の御代に創建されたと云われ、舊鈴ヶ嶽奥神社と号して、また鈴奥大明神とも称されましたが、明治12年に現在の社号に改められました。大正12年12月27日に神饌幣帛料供進神社に指定されました。

<参考文献>
  • 石川県珠洲郡誌 (臨川書店・石川県郷土誌業刊)
  • 珠洲市史 (2) 資料編(中世・寺院・歴史・考古) 石川県珠洲市役所
  • 石川県の地名 日本歴史地名大系17 (平凡社)


                       

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