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大戸浦野氏 |
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■大戸城主・浦野弾正忠重勝 現在、群馬県吾妻郡大戸の浦野氏は多く、滋野氏の流れを汲むと云われ、これを「大戸浦野氏」と呼びます。滋野流浦野氏の出自については、禰津氏からの分流とするのが一般的ですが、大戸村誌および群馬県史等によると、大戸浦野は滋野一族から出てはいるものの、海野氏の系流で、信州小県を本領とするとあります。海野氏は上信国境三原庄の領主であり、鎌倉時代以降、浅間山の裾を通って西吾妻に進出したと考えられています。そして、上野国に所領を持つ浦野氏は、大戸城を拠点としました。この時代、滋野の三家は同族としての結び付きが強かったので、浦野氏の中にも海野氏に従った者もいたのかも知れません。 烏子稲荷神社史料によると、浦野氏が大戸に進出した時期については、建保3年(1215)に信州小県郡から浦野玄藩重治が西上州に来て、大戸に居を構えたとあります。以後約200年間については史料が見つかっていませんが、永正6年(1509)に連歌師柴屋軒宗長の紀行文「東路の津登」に「大戸というところ、浦野三河守宿所にて一泊し、九月十二日草津に着きぬ」とあって、大戸に浦野三河守の屋敷が16世紀初頭に存在していたことが分かります。 |
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群馬県倉渕村三ノ倉には、曹洞宗の寺院である全透院があります。倉渕村誌には、全透院は延徳元年(1489)に木部新九郎が開基したとあります。木部氏は応永年間(1400)から永正年間の始め頃までの約100年間にわたって三ノ倉地方を支配したのですが、その後、この地方は大戸の浦野氏の支配下に代わりました。 大戸浦野氏による権田・三ノ倉地方の支配は、永正年間(1504)の始めから北条氏直の軍勢に攻め滅ぼされる天正10年(1582)まで続きました。その間、大戸浦野氏は永正10年(1513)に東の勢力者である箕輪の長野兼業に攻められて敗れましたが、後に和睦して均衡を保ち、長野氏から栗崎城を与えられました。浦野氏は、大戸を本拠地として、権田城・栗崎城を支城にして、大戸・三ノ倉地方を支配しました。 大永2年(1522)には、大戸城主・浦野弾正忠重勝は栗崎城内に堂宇を建立して、室田の長年寺5世紹舜大和尚を招じて、全透院を中興開基しました。全透院の名前は、浦野弾正忠重勝の法名「青霄院関翁全透居士(大永6年丙戌4月20日没・行年51歳)」にちなんで命名されたと云われています。 <参考文献>
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