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古代豪族・滋野氏

■滋野氏は紀国造族を遠祖とする古代豪族
 滋野氏の名は平安時代の延暦17年(798)に滋野宿祢家訳、弘仁14年(823)に滋野朝臣と称していたことが国史に見られるのが最初です。そして、この滋野氏が見られる以前の天平勝宝元年(749)には、楢原国造東人(滋野東人)の名があります。楢原東人は大和国葛上郡楢原郷(奈良県御所市)を本拠とする豪族であり、楢原国造をさらに遡ると、その遠祖は紀国造族に辿り着きます。
 滋野氏については、紀国造族を遠祖とする説(滋野宿禰説)の他にも清和天皇以降に出自があるとする説(貞秀親王裔説、貞固親王裔説、光孝源氏説など)もありますが、それ以前の資料に既に滋野氏の名が見られることから、楢原国造族の後裔・滋野朝臣家訳を祖をした一族と考えられます(楢原東人を遠祖とした氏族であるという説もあります)。


 滋野氏の名は家訳以降の文献にも見られます。仁寿2年(852)2月の「続日本後紀」には、家訳の子・貞主の死について記されていて、「正四位下・相模守滋野朝臣貞主」とあります。また、貞観元年(859)12月の「三代実録」には、同じく家訳の子・貞雄の死について触れられ、「従四位上・摂津守滋野朝臣貞雄」とあり、家訳の世代から滋野氏を名乗り始めたことがうかがえます。

 滋野一族が信濃の豪族になった経緯については、滋野朝臣が信濃の牧場の監督者(牧監)として下向し、ここで滋野氏と称したという説や、清和天皇の皇子貞保親王が病気治療のため、信州へ下向し、そのまま海野庄に住み着いたことに始まるとする説があります。そして、清和天皇の皇孫である善淵王が始めて滋野姓を賜り、これが信濃滋野氏の祖と言われています。このため、長い年月の中で滋野氏は清和天皇の末裔として伝えられることになったと考えられますが、本来の滋野氏の祖は清和天皇以前にあります。


■信濃滋野氏と滋野御三家
 滋野一族は、室町中期には長野県東御町一帯を本拠とし、海野平から群馬県嬬恋村にわたる広範な地域を領有する有力豪族であったそうです。そして、滋野氏は後に、海野、禰津、望月の三氏に分かれます。この三家は信濃国小県郡、佐久郡に栄えて、名族として中世初期から活躍した家系と言われています。
 この滋野御三家を遠祖とする一族は多く、浦野氏もこの滋野一族の末裔(禰津氏海野氏)とされています。ちなみに、海野氏の後裔である真田家の嫡流には、兄弟が東西両軍に分かれた関ヶ原の戦で東軍に付き、勝利した真田信之が有名で、代々大名家として明治期まで続きました。

<参考文献>
  • 姓氏家系大辞典 (角川出版)
  • 姓氏家系歴史伝説大事典 (勉誠出版)
  • 新編 姓氏家系辞書 (秋田書店)
  • 浦野文書と一族の系譜 (朝日印刷工業)
  • 浦野一族小史 (浦野氏ゆかりの会)


                       

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