サイトマップ 掲示板 浦野家の歴史と系譜



各地の浦野さん情報

 各地の浦野家の家紋やルーツについて多くの情報をお待ちしています。自分のルーツについて何も知らない方も一緒に情報交換しましょう。また、口伝に基づくものも多いので、情報に誤りがある場合の訂正なども歓迎です。ホームページをお持ちの方とは、ご希望に応じて、リンクさせていただきたいと思いますので併せてご連絡下さい。掲示板、またはメールにてお待ちしています。

平成22年8月14日:浦野忠乃条様
(1) 家紋は胡瓜。
(2) 先祖は長野から千曲川(信濃川)を下って新潟まで来たという口伝がある。
(3) 戦国時代の末に家財を船に積み川を下ってきて、現在の新潟市で土地を買って住み始めたらしい。
(4) 江戸時代には名字帯刀を許されていた等と聞いている。
(5) 家系図等の文献は紛失。名刀があったらしいものの、売り払ったそうです。
(6) 口伝ですが、戦国時代の戦乱で、土地を開墾しても人骨が出る状態になり人民が去ったそうで、土地を捨てて、家財を船に乗せて新潟へ流れたとのことです。
(7) 新潟市の浦野性の何割かは当家の親戚ですので、別の家系の浦野さんはあまりないと思われる。

非常に貴重な情報をありがとうございます。
私も趣味の範囲で調べている素人ですので、専門的なことは言えませんが、天正10年の武田氏滅亡の際に各地に散った浦野氏の中には、信州小笠原氏との婚戚関係を頼って富山方面に逃れた一族も多いと云われるそうです。信濃川を下って新潟まで来たということですので、同じように各地へ移住した浦野氏の1つであると思います。信濃の滋野氏族浦野氏に間違いないでしょう。名字帯刀を許されていたということですが、新潟に移住後、誰に付いていたかなど口伝はありませんでしょうか。差し支えなければ是非情報をお寄せください。


平成19年6月26日:長野県諏訪市の浦野様(しゅり様)
(1) 家紋は竹林に雀
(2) 長野県の諏訪の天竜川沿いに本家がある。
(3) 先祖は武田の家臣であり、武田氏滅亡時に離散したが、真田氏に庇護されたという口伝がある。
(4) 家系図等の文献はすべて菩提寺に預けたらしいが、天竜川の氾濫で流されてしまった。
(5) 現在残っているのは戦国時代からある石垣のみ。

ご投稿ありがとうございます。
旧西春近村諏訪形にあたる伊那市諏訪形には、上伊那郡宮田村北割と小河川を挟んで16軒ほどの浦野家があり、諏訪形浦野家と呼ばれている一族があります。家紋は「竹林に雀」。

一族に残る古文書(永禄10年)から、生島足島神社所蔵の武田信玄の起請文にも出てくる浦野被官衆の一人、浦野宗波軒信慶の末裔であることが分かっているそうです。


平成19年5月30日:長野県上伊那郡箕輪町の浦野様
(1) 家紋は丸に立ち沢潟
(2) 本家には源氏の流れであるという系図が存在する。
(3) 「当家は元々高橋を名乗っていたが、沢(中箕輪)の浦野氏に請われて養子に入った」という口伝がある。今はバイパス開通のためなくなってしまったが、本家(浦野義雄家)の田圃の土手に鳥居があり、近くに高橋神社発祥の地の石碑ある。その鳥居が壊れたり朽ちたりすると大出の高橋神社の氏子が本家に鳥居を新たに建立することを伝えに来たと云われる。

ご投稿ありがとうございます。
長野県上伊那郡箕輪町は浦野姓日本最多の町です。箕輪浦野氏の一家系に、大字中箕輪の浦野義雄家を総本家とする同族が19戸ほどあると云われています。家紋は「丸に立ち沢潟」。この浦野家には慶長初期に書き記されたという系図があり、それによると、甲斐武田の源信義(文治二年没)の四男が信濃国浦野七郷を賜り、浦野四郎信豊を称したとあります。そして、その22代後裔である浦野民部清重は武田信玄に従って、永禄6年川中島の合戦で勲功があったそうです。

御本家には「源氏の流れであるという系図がある」ということですが、これは箕輪浦野氏が後に末裔である浦野清房が慶長元年2月に豊臣家に仕官を願い出たときに門地を尋ねられて家系を提出したところ、秀吉及び執権・片桐東市且元、五奉行・大谷形部少輔吉隆により添え書きされた、清和源氏に相違ないと記した古文書が残されているため、そこから来ていると思われます。信濃国浦野に定住し、武田氏に仕えたことから小県浦野氏の家系であると思われます。


平成19年3月4日:神奈川県川崎市幸区の浦野様
(1) 家紋は下がり藤
(2) 明治期まで東京都文京区におり、菩提寺は文京区小日向にある道成寺の分寺。
(3) 江戸時代は直参(旗本もしくは御家人か)であったと云われる。
(4) 幕末には小普請奉行であり、当時の浦野家当主は鳥羽・伏見の戦いに参加して現地で病没したと云われている。
(5) 曾祖父の代から建築板金(銅工屋)を営んでいる。曾祖父の代に文京区から神田和泉町に移った。川崎市に移ったのは昭和15年前後である。
(6) 過去帳やそれを元にした系図書きが残されているが、そこには勝沼入道信胤などの武田氏系の名前がある。
(7) 当家におけるエピソードとして幾つか伝わっているものがある。@幕末期には、当時の先祖の娘さんが領地に行くと、ひいさま、ひいさまと呼ばれて歓迎された。A幕府終焉の時、大金が下げ渡されて、取り巻きが出来て全て遊んで使ってしまった。B明治になり、かつて住んでいた屋敷を引き払って数年たってから床下から小判が出た。C明治初期に当家の息子だった方が、甲州や信州の方まで菩提寺を巡って調査し、現在家にある物よりも詳細な家系図を作成したらしいのだが、それを自分の年長者(その人の父か祖父だろうと思われる)に見せたところ、文明開化か廃仏棄却の世だったからか、「こんなものはお金にならない」と言われて引き裂かれてしまったと云う。

非常に詳しい情報ならびに御先祖のエピソードまでご投稿ありがとうございます。
文面からお察しするに、調査をすればかなりのことが分かりそうな気がしますね。江戸時代に旗本か御家人ということでしたら、高い確率で文献に御先祖の記録が残されていると思われます。図書館や郷土資料館に行って、分限帳などの古文書を調べると、うまく行けば、御先祖の暮らしぶりが分かるかもしれません。

関連する浦野氏、また過去に当サイトに情報を提供して頂いた中で関係がありそうなものを以下に列挙致します。
・ 武蔵国多摩郡の名族に、藤原氏から分かれたという浦野氏がおり、関連を調べてみるとよいかも知れません。詳しくは「諸国の浦野氏」をご覧下さい。
世田谷区喜多見の浦野氏の先祖は信州浦野郷から来たと云われ、家紋は下がり藤です。
・ 神奈川県海老名市には先祖が長野から移住してきた浦野家があり、家紋は下がり藤です。


平成19年2月20日:群馬県吾妻郡大戸の浦野様
(1) 家紋は丸に武田菱
(2) 葬儀などは神式で行っていた。
(3) 残念な事に先祖の話に関しては一切聞いたことがない。

ご投稿ありがとうございます。
群馬県吾妻郡大戸を拠点とする浦野氏は多いのですが、これは滋野三家系の流れを汲む信州小県浦野から進出した一族とあり、これを「大戸浦野氏」と呼びます。そして、倉渕村三ノ倉にある曹洞宗全透院は、栗崎城の一角に、大戸城主「浦野弾正重勝」が中興開基した寺で、全透院の屋根瓦や灯篭には「武田菱」の紋が入っています。

戦国時代に浦野氏は武田氏の家臣だったからでしょうか、武田菱紋の大戸浦野氏はおられます。ご関心があれば、三ノ倉の全透院に一度足を運ばれると良いかと思います。


平成19年1月24日:東京都新宿区歌舞伎町の浦野様
(1) 家紋は丸に蔦
(2) 祖父の名前は浦野磯次という。
(3) 源氏の系統であろうという口伝がある。
(4) 浦野磯次の父の代のとき、当時は府中競馬場のあたりの土地を広く持っていた。磯次の父(次男と云われている)の兄が「ジョウウマ」というところで餅屋を営んでいた。子供は2人。この磯次の父の兄が離婚したころから、お店も傾いていったと云われる。

ご投稿ありがとうございます。
戸籍・過去帳等での情報収集を行ってみると、何らかの繋がりが分かるかも知れません。歌舞伎町の浦野家に関して情報がありましたら、些細な事柄でも構いませんので、メールまたは掲示板まで御提供いただきたく思います。ちなみに滋野氏系浦野氏には長野県中野市に丸に蔦紋を持つ浦野一族は確かに存在しますが、家紋だけに頼る先祖調査は信憑性に欠けますので注意が必要です。


平成19年1月13日:熊本県長洲町の浦野様
(1) 家紋は左一つ巴
(2) 家系図等は消失してしまったが、口伝では先祖は豪商の油問屋で元々高田姓を名乗っていたが、曾祖父が養子で浦野姓になったと云われる。
(3) 母方の先祖は九州福岡の柳川藩柳川城主と云われていて、祖母が姫の出だと聞いている。

ご投稿ありがとうございます。
福岡藩士に浦野重右衛門勝幸という人物がおります。初代福岡藩主・黒田長政は、関ヶ原の合戦の功により、小早川秀秋が備前岡山に移った後の筑前一国五十二万石を得ました。浦野家は浅井長政の家臣でしたが、主家が滅びて、黒田氏に仕えました。御父方の御先祖は元・大きな油問屋だったというお話に接点があるかどうか分かりませんが、御母方の御先祖は九州福岡の柳川藩柳川城主といった話には少し関連しそうな感じもして、調査する価値があるように思います。

いずれにせよ、御先祖は豪商であったとのことですので、地元の図書館または郷土資料館・教育委員会などで御先祖に関する情報が得られるかも知れません。九州地方の浦野氏に関しては未だ情報が不足しておりますので、何か御存じの方がおりましたら、些細な事柄でも構いませんので、メールまたは掲示板まで御提供いただきたく思います。


平成18年11月11日:愛知県豊橋市長瀬町の浦野様
(1) 町内76軒の中で「浦野」は11軒あり、家紋は丸に剣方喰
(2) 浄土真宗東本願寺(真宗大谷)派。
(3) 残念な事に家系等の資料が見当たらない。

ご投稿ありがとうございます。
愛知県の浦野家は長野・群馬に次いで多いのですが、愛知の浦野氏と信濃浦野氏とが同じルーツを持つかどうかは詳しいことは分かっていないようです。実は元々武田領だった長野・群馬の浦野氏にはその証拠と
なる資料が沢山残されているのですが、その一方で、愛知の浦野家は多いにもかかわらず、そのルーツが分かるような資料が見つかっていません。清和源氏満政流の浦野氏は愛知に出自を持っていますが、その流れを汲んでいるのかどうか検証が必要と思われます。愛知の浦野氏についての情報がありましたら、些細な事柄でも構いませんので、メールまたは掲示板まで御提供いただきたく思います。

清和源氏満政流の浦野氏
浦野家の分布図(中部)

地元の図書館または郷土資料館・教育委員会などでその地方の浦野氏に関する情報が得られるかも知れません。町内に占める浦野家の割合がとても高いので、町内で何らかのルーツについてご存知の方はおられないのでしょうか。

平成18年10月16日:神奈川県平塚市在住の浦野様
(1) 家紋は高坂弾正氏と同じような太陽紋。
(2) 亡祖父の出身が新潟県である。親戚は新潟に在住。

ご投稿ありがとうございます。
高坂弾正氏と同じような家紋とは、「九曜」のことではないでしょうか。九曜紋に関連する「銭九曜」などの銭紋は信濃滋野氏の分流氏族に多く見られ、浦野家にもあてはまります。

天正10年の武田氏滅亡の際に各地に散った浦野氏の中には、信州小笠原氏との婚戚関係を頼って富山方面に逃れた一族も多いと云われていて、同じように新潟方面へ逃れた信濃の滋野氏族浦野氏の可能性が高いと思われます。

平成18年8月13日:広島県呉市の浦野様
(1) 江戸時代の先祖は旗本だったという口伝がある。
(2) 真偽のほどは不明だが、先祖である浦野乙吉氏は、江戸幕府が倒れ、明治になって、ロンドンに留学し(写真有り)呉に海軍工廠ができるので東京から呉に来たと云われている。当時乙吉の羽振りが良かったため、親族も呉に移住したと云われている。また、乙吉の姉妹には大奥につとめていた者もいたらしい。
(3) 原戸籍をみると、乙吉の出生地は、元治元年生まれで東京府東京市麻布区麻布本村町

ご投稿ありがとうございます。
広島県呉市の浦野家が東京麻布から来ているとは知りませんでした。貴重な情報をありがとうございます。麻布の浦野家に関して情報がありましたら、些細な事柄でも構いませんので、メールまたは掲示板まで御提供いただきたく思います。

平成18年5月18日:東京都目黒区の浦野様(浦野勝明様)
(1) 先祖は武家と言われており、本家の過去帳の戒名からも武士と判断できる。
(2) 先祖の墓は元麻布にある。

ご投稿ありがとうございます。
東京で武家の出の浦野氏といえば、多摩郡の名族、藤原氏から分かれたという浦野氏(「諸国の浦野氏」のページ参照)があります。

平成18年1月31日:東京都墨田区出身の浦野様
(1) 家紋は鬼蔦
(2) 本家の古い墓石から少なくとも元禄4年から存在している浦野家である。
(3) 菩提寺は台東区浅草寺の別院として1600年代に創建、宗派は天台宗
(4) 菩提寺の創建以前の浦野家については不明。
(5) 江戸期に入ってから墨田区の広範囲にわたって、「中之郷」と総称されていた。
(6) 伝承では当家は茨城県方面から流れてきた落ち武者だったとの話を聞いている。
(7) 藤原一族の流れを汲むという伝承もある。
(8) 古文書及び家系図の類は関東大震災と東京大空襲で焼失した。
(9) 菩提寺には本家の墓所を含め、以前は大小30基ほどの浦野家の墓が存在し、全てが鬼蔦紋。
(10) 江戸幕府開府以前は、墨田区は武蔵国上総国のちょうど国境に位置していたと思われる。(推定)

大変詳しい情報提供をありがとうございます。
武蔵国多摩郡の名族に藤原氏から分かれた浦野氏(「諸国の浦野氏」のページ参照)があり、強い関連を感じます。400年前から続く旧家で分家筋も多く存在しているようですので情報収集の如何によっては有力な手がかりがつかめるかもしれません。

本情報をご提供頂いた浦野様より、東京都墨田区以外で鬼蔦紋の浦野家について情報がありましたら、些細な事柄でも構いませんので、メールまたは掲示板まで御提供いただきたく思います。

平成18年1月10日:長野県の浦野氏について(あやきち様)
(1)家紋は梅鉢
(2)伝承では先祖は「浦野みののかみ」という名である。
(3)どこかのお寺に先祖に関連する様々な物があると聞いたことがある。

 ご投稿ありがとうございます。御先祖にあたる「浦野みののかみ」という人物ですが、これは漢字表記で「浦野美濃守」と書かれます。浦野氏で美濃守を名乗った人物は複数いるのですが、現代まで語り継がれるほどの長野県の浦野美濃守は「浦野美濃守友久」に間違いありません。

浦野美濃守友久は戦国時代に信濃国小県郡浦野で浦野城主であった人物で、その妻は武田信玄の妹です。当サイトでも詳しく紹介しておりますので、こちらをご覧下さい。

また、「どこかのお寺に先祖に関連する様々な物があると聞いた」ということですが、このお寺とはおそらく長野県上田市にある曹洞宗東昌寺のことでしょう。そこには浦野美濃守友久を含め、浦野氏の墓石が6基(宝篋印塔)があるそうです。梅鉢紋の浦野さんの情報をお待ちしております。

平成17年12月23日:群馬県安中市の浦野様
(1)家紋は武田菱(武田の家臣だったからか?)
(2)磯部浦野氏(家紋は洲浜)と云われるが、家紋が異なる。
(3)いつどのように家紋が分かれたのか、それとも初めから異なるのか、そのあたりは不明。
(4)三ノ倉の全透院の屋根瓦や灯篭には「武田菱」の紋が入っている。
(5)以前、祖父に見せてもらった家系図に「浦野弾正重勝」の名があった。

 大変貴重な情報提供をありがとうございます。武田菱の浦野氏で群馬にご実家があり、かつ先祖伝来の家系図に浦野弾正重勝の名前があることから、武田家家臣の浦野氏の後裔に間違いなさそうです。家紋については大戸浦野氏の紋と異なりますが、武田菱紋の浦野氏ですので、武田家および全透院とのつながりに関する情報をじっくり集めていくことが重要かと思います。
 武田菱紋の浦野さんの情報をお待ちしております。

平成17年11月5日:栃木県足利市の浦野氏に関する情報
(1)曾祖父の姓が浦野である
(2)戸籍によると、栃木県足利市八木宿周辺の出身
地域情報:
 足利市は群馬県境と接していて、東武鉄道伊勢崎線は、群馬県館林市−栃木県足利市−群馬県太田市というルートで走っていることからも群馬県との交流が多い。また群馬県桐生市は、過去に栃木県の自治体と越境合併を行っている。

 足利市は栃木県の中で最も浦野氏の多い地域です。この一帯は群馬県南東部を中心とする浦野氏とおそらくは同族と思います。しかし、足利市を含むこの一帯の浦野氏は、大戸浦野氏などが多い群馬県西部とは独立していますので、この関連を調べることが重要と思います。

平成17年11月3日:神奈川県海老名市在住の浦野様
(1)父および祖父の代は長野県出身である
(2)長野に親戚が多い
(3)家紋は下がり藤

 長野県の浦野氏は、信州小県郡浦野庄発祥の滋野氏流浦野氏の末裔である可能性が極めて高いです。調査は比較的容易と思われます。

平成17年10月31日:奈良県の浦野氏に関する情報
(1)1860年代の江戸末期に倒幕に立ち上がった天誅組の一員に浦野衛守という人物がいる
(2)奈良県南部には天誅組に関係する遺跡が多く残っている

 貴重な情報提供をありがとうございます。近畿地方の浦野姓分布(平成16年10月現在)を見ると、特に奈良県北部に集中しています。浦野氏が天誅組に属しているということですので、これについては、郷土史料の奈良市史、大和郡山史などに詳細が記されていると思いますので、いずれ調べてみたいと思います。

平成17年9月27日:福岡県京都郡苅田町出身の浦野様
(1)当地で先祖代々神道である
  (位牌は明治期以降のものが残っているが、それ以前は火災で焼失したらしい)
(2)家紋は丸に違い鷹の羽

 福岡県の浦野氏については未だ情報が不足しているのですが、多くは滋野浦野氏(小県郡発祥)の流れを汲んでいるようです。福岡は元々浦野氏の多い地域(世帯比率では全国最大)ですが、九州地方の浦野姓分布(平成16年10月現在)を見ると、福岡県東部および大分北部に最も集中しています。明治維新後に一帯で浦野を名乗った地域があるような気がしますが、おそらくは古くから当地に暮らしている福岡浦野家があると思います。
 当サイト内でも紹介していますが、武田氏滅亡の際(天正10年)に信州松本の小笠原氏が浦野氏と婚戚関係にあったことから、小笠原氏を頼って逃れた浦野氏も多いと云われています。しかし、小笠原氏は外様でしたので、富山、高岡、婦中等に移封され、その後、明石や北九州方面へ次々に移されていったようです。
 尚、福岡浦野氏に関連する著名な人物として、幕末の女流歌人・野村望東尼(文化3年9月6日生、慶応3年11月6日没)がいます。野村望東尼は、筑前国早良郡の生まれで、福岡藩士浦野重右衛門勝幸の三女です。幼名はモト。初代福岡藩主・黒田長政(黒田如水の子)は、関ヶ原の合戦の功により、小早川秀秋が備前岡山に移った後の筑前一国五十二万石を得ました。浦野家は浅井長政の家臣でしたが、主家が滅びて、黒田氏に仕えました。

平成17年9月20日:大阪府堺市出身の浦野MOMO様
(1)堺市には多くの浦野家が存在
(2)先祖は農民でずっと昔からこの地域に土着していたらしい
(3)家紋は丸に剣方喰

 MOMOさんからは、できることなら先祖をさかのぼって調べたいというご連絡を受けました。江戸時代から土着されているようですので、私が思い付くだけでも、かなり多くの方法があると思います。管理人の経験の範囲内ではありますが、詳しくは電子メールでご本人に直接アドバイスさせていただきました。

 お住まいの地域には多くの浦野家があるようですが、本家筋の家では資料はなくても重要な言い伝えが聞けるかもしれません。また、これは私の勘ですが、長い間当地に暮らされていますので、郷土史に御先祖の名前を発見できるような気がします。ただし、農民の場合は基本的に公文書に苗字が書かれることはないので、通称(屋号)で御先祖の名前が書かれていることでしょう。屋号をご存じなければ、明治初期の戸籍、もしくは昔から当地を治められている旧家で、かつての屋号を調べられる場合があります。

 さて、大阪の浦野一族については、滋野浦野氏の末裔なのでしょうか。もし情報をお持ちの方がおりましたら是非ご連絡下さい。武田氏敗北後に離散した浦野一族のうち、中国・九州地方に移った浦野家も多いので、大阪に居りついた一族がいても不思議はありません。
 ちなみに、近畿地方の浦野姓分布(平成16年10月現在)を見ると、大阪府南西部、奈良県北部、和歌山県北部に多くの浦野家が集中しています。

平成17年8月26日:群馬県高崎市出身の浦野様
(1)言い伝えで先祖は「浦野ダンジョウ重勝」という武士
(2)曾祖父の世代までの先祖は三ノ倉にある寺院に毎年招かれ、何らかの記念式典に参列していたらしい

 群馬県吾妻郡大戸を拠点とする浦野氏は多いのですが、これは滋野三家系の流れを汲む信州小県浦野から進出した一族とあり、これを「大戸浦野氏」と呼びます。戦国時代には武田家の家臣であり、この大戸浦野氏は手小丸城・大戸平城を本拠として、倉渕村の三倉栗崎城・権田城を支配下におく豪族でした。「浦野弾正重勝」は、上野国群馬郡三倉邑で大戸城主だった人物(大永6年4月20日没)です。
 そして、倉渕村にある曹洞宗全透院は、栗崎城の一角に、大戸城主「浦野弾正重勝」が中興開基した寺で、全透院には浦野弾正の墓なるものが実在するそうです。おそらく御先祖が参列されていた寺院とはこの全透院のことと思われます。

 武田が敗れて以来、浦野氏は時代ともに各地へ散っていったものの、大きな浦野家では古い時代の系図が残されています。この重勝については、高崎市と岡山市に現存する2つの浦野家の系図に記録が残っているらしく、資料によると岡山市の浦野家の系図は2巻のうち、最初の1巻目の系図が焼失していて、2巻目の最初に出てくるのが「重勝」です。高崎市の浦野家では、出自である「清和天皇」から記載されているようです。

平成17年6月8日:東京都墨田区出身の浦野様
(1)少なくとも元禄年間以前から現地に土着
  (本家の菩提寺の墓石に元禄時代の年号が刻まれていたため)
(2)江戸期以前に何処から来たのかについては不明
(3)江戸期、武士階級ではなかったが大きな家であったと云われている
  (昭和初期には家系図もあったらしいが東京大空襲によって焼失した)

 少なくとも400年以上続いている旧家ということで、由緒ある家と思われます。現地で郷土史を扱っている資料館や図書館などに保存されている資料に先祖の名前が残されている可能性があります。
 なお、武蔵国多摩郡の名族に、藤原氏から分かれたという浦野氏がおり、関連を調べてみるとよいかも知れません。詳しくは「諸国の浦野氏」をご覧下さい。
 また、世田谷区喜多見の浦野氏の先祖は信州浦野郷から来たと云われています。




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