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狼煙村と浦野孫右衛門 |
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■狼煙村に浦野孫右衛門の娘がいた 私は調査を進めていく中で、当家の先祖が狼煙村で暮らしていた経緯について関心を持つようになりました。現地での郷土史料の調査も含めて、多くの文献に目を通したところ、狼煙村には浦野孫右衛門との関連を示唆する記録が残っていたのを発見しました。 狼煙村には、近世に代々七郎左衛門、または河崎七郎左衛門を名乗った旧家である宇多家がありました。宇多家は組合頭、肝煎、十村などを務めましたが、戦後、金沢へ移転しました。宇多家が狼煙村で最も大きな旧家だったこともあり、狼煙村の歴史資料には、七郎左衛門に関する記録が最も多く残されていました。浦野家との関わりはこの記録の中に見つけることができました。
■河崎七兵衛の妻は浦野孫右衛門信秀の娘か? ところで、なぜ浦野孫右衛門の娘は、能登最奥の地である狼煙村に嫁いだのでしょうか。時期を推定してみると、畠山義則の孫娘が狼煙村に流れてきたのは天正期ですので、遅くとも1590年代初期のことです。また、長連龍が隠居し、好連が長家を相続したのが1600年のことであり、浦野事件の主要人物であった長連頼が継いだのは1619年のことです。河崎七兵衛がいつ頃生まれのかは正確には分かりませんが、おそらく長連頼が家督相続する前後に浦野孫右衛門の娘と結婚したのではないかと推測できます。そう考えると、この浦野孫右衛門とは、長好連が病死したときに、家督相続問題で連頼を当主と定めた浦野孫右衛門信秀のことではないかと想定されます。もしそうだとすれば、河崎七兵衛の妻とは、後の浦野事件で処刑される浦野孫右衛門信里の姉(妹)ということになります。 浦野一族は全盛期、多くが家中の有力家と縁組を結んだり、また、領国の土豪と婚を通じて族団的徒党を結ぶなど、土着性を強くし在地の有力農民層との一体化を強めていました。従って、河崎與三助の妻となった浦野孫右衛門の娘もこのような例の1つと考えられます。河崎家(宇多家)は代々組合頭、肝煎、十村などの要職を務めた有力者です。土着性を強めるために長家の家臣だった浦野家との縁談があっても不思議ではないように思えます。 ■狼煙村の浦野家は? では狼煙村の浦野家は、一族の男子が完全に絶えてしまった浦野家を存続させるべく河崎家からの分家の後裔なのでしょうか。結論から言うと、(ありえないとは言い切れませんが)可能性は大きくないと考えられます。 現代の石川県の浦野姓分布を見ると、当時の長氏の勢力分布に非常に似ていることが分かります。長氏は、穴水を中心とした能登畠山氏家臣で、そこを拠点に能登の各地に分家を増やした有力な一族です。浦野氏は長氏の筆頭家臣でしたので、長氏の分家の際に、長家とともに能登の各地に散らばったものと思われます。従って、珠洲も当然ながら、長一族の支配の及ぶ能登各地に浦野氏ゆかりの家が残っている可能性は大いにあるのです。そして、それら各地に一族の娘を嫁を出すことも同様に当然考えられます。つまり、河崎與三助以前から狼煙村には浦野家があったと考える方が現実的といえます。 また、それでは何故浦野事件の際に、これら能登各地の浦野家は追われなかったのかという疑問もありますが、これについても戦国期以前から長氏の重臣として土着していた浦野家であったとすれば、加賀藩が浦野孫右衛門の血縁を遠く遡って罪を波及することもありません。 <参考文献>
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