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狼煙城

■狼煙城跡
 城名
 所在地
 遺構
 城主
狼煙城
珠洲市狼煙町
曲輪・土塁・堀切
河崎與三助
 能登志徴下編に狼煙村周辺に城が存在したという記録が残されています。畠山家臣河崎與三助が居城したと云われます。場所は山伏山林間野営場です。飯田から、主要地方道大谷・狼煙・飯田線を辿り、葭ケ浦バス停からもう少し狼煙漁港方向に進むと野営場の入口があります。
 この狼煙城跡については、禄剛崎付近や須須神社奥宮周辺などの調査も行われていましたが、成果はなく、詳しい場所は最近まで不明でした。城跡が発見された山伏山林間野営場はキャンプ地です。そのキャンプ地の北方、海へ突き出す地が城跡で、現在は休憩所の建物が設置されています。出崎となる地は、一段高く独立した丘を形成しています。丘の東側には見事な堀切が残されており、その他には城の面影はありません。ただ、西側に尾根があり、海岸方に伸び、途中に堀切が認められます。地形から想定しますと、キャンプ場を設置する際に、南側が埋められたと思われる形状で、元は堀切が存在したと考えられます。一方、城跡東側の堀切を挟んだ向かい側の地は坦地で、田地跡まで続いています。また 、田地跡に接して土塁に囲まれた一画が認められます。その上、この土塁に囲まれた一画の南東側は沼地となり、この箇所を他と区分しています。このことから、屋敷跡ではないかと考えられます。水を確保するとしても適した場所です。現在、キャンプ場として開発され状況は変わってしまっておりますが、かつては海側にそって城が築かれたと考えられます。

■狼煙城の歴史
 能登志徴下編に、狼煙の遺構について、2つの事柄が記載されています。
 ◎「石火矢臺」
此臺は山伏山の麓海岸の出崎にありて、其形ち今いふ臺場にて、里俗狼煙のホウロク臺と呼ベリ。類聚三代格巻五。寛平六年八月廿一目の太政官符に、應停史生一員置弩師事。右得能登國解。此國獨出北海。東西不隣。若有非常誰備防禦。望請。准越後佐渡等國。被置件職。云々。と見えたれば、上代此臺に弩抛を飾り置きて、非常に備へたりしなるべし。(以下略)

 ◎「狼煙城跡」
石火矢臺の地にて、今も里人城山とも呼べり。今狼煙村に河崎七郎左衛門と云舊家あり。此者先祖河崎與三助と云人の居城なりといへり。故墟考に、三崎郷狼煙村領城跡。土人其遺跡ありといへれども、不詳。河崎某居たりと云ふ。無傳。今此村に七郎左衛門と云巨民あり。川崎氏と云。若くは末裔かと。

 「文化十二年郡方書上帳」
 狼煙村往還の海へ指出たる地城跡にて、今も堀・礎等残り有之由。地形城山の形に似申候へ共、城跡と申傳無之。勿論堀・礎も無之とあり。

 以上のことから、古くは台場として設置されていたものを砦として修造したと考えられます。伝承では、遺構がないように記載されていますが、これは現地を確認をしないまま記したと思われます。また、河崎與三助については、畠山氏が守護として能登に入国した時から家臣となり、子孫代々仕え、近世にと命脈をつないでいます。

狼煙城跡の地図 (図説・石川県の城X 続・能登の山城(高井勝己)より引用)

<参考文献>
  • 能登志徴下編 珠洲郡 (森田平次 昭和13年)
  • 日本城郭大系 7 新潟・富山・石川 (新人物往来社 1980年)
  • 図説・石川県の城X 続・能登の山城(高井勝己)


                       

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