戸村一族



清和源氏義光流・戸村氏

佐竹氏族戸村氏
 藤原氏秀郷流の戸村氏が起こった常陸国那珂郡戸村は、後に佐竹領となりました。常陸守護であった佐竹義盛には子がいなかったので、山内上杉憲定の子・義憲(義仁)を持氏の後押しで養子に迎え、佐竹氏の嫡子としました。そして、佐竹義仁の三男・義倭は、城南にあたる常陸太田大崎に住んだので、「南殿」と呼ばれ、南氏と称しました。その後、義倭は戸村に移封され、滅亡した前戸村氏の城部を修復しました。戸村城を再興した義倭は、北城を本丸として居城し、佐竹氏の流れを汲む戸村氏の祖となりました。
 戸村義倭には子がなかったので兄・佐竹義俊の5子・義易を嗣としました。義易の子・義廣は天永18年(1590)、佐竹氏と江戸氏の不和を知り、自ら奮戦して江戸勢を打ち破って、両家が講和する基盤を築いたと云います。戸村家は、戸村十太夫を名乗った義国まで、この地で7代にわたって佐竹氏の重臣として栄え、 佐竹領南方の要衛として城郭も整備されましたが、関が原の戦後、慶長7年(1602)、宗家佐竹義宣の秋田藩横手への国替えに供って、戸村氏もこれに従ったため、戸村城は廃城となりました。


 その後、秋田に移った戸村氏は、八代戸村十太夫義国が大阪冬の陣で、徳川秀忠から感状を与えられるなど功労が多い人物でした。そして、九代戸村十太夫義連は寛文12年(1672)、横手城代となり、その後も戸村氏は、明治時代まで佐竹一族の重臣として栄えました。三千風行脚文集には、「横手村の郡司・戸村氏は、秋田佐竹家の長臣として、文武兼備の雄士、ことに風雅の逸人なり」と記されています。


<参考文献>
  • 姓氏家系大辞典 第二巻 (角川書店)
  • 系図纂要 第十一冊 (平文社)



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