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西海地区の産業と教育

■奥能登を支えた産業
 製塩は食塩を主としていて、藩政時代よりこの地区の生業でした。大正8年の塩製造高は394万1875斤に及んでいます。また、馬蝶鰐崎海岸には、黄銅鉱脈が露出していて黄金色が見られました。鉱脈は細く、海岸に添って西に延びていますが採鉱の見込みはないと云われていました。砂鉄は馬蝶一帯の海岸に黒色の砂粉としてあり、多量に産出する見込ありました。折戸産の海雲は、品質良好なりと云われ、藩政時代には毎年2樽宛、又は1斗5升樽5個として、これを藩主に奉納していました。毎年上川において採取したものを塩漬にして、これを運搬するのは肝煎の任務だったそうです。


■寺小屋での教育
 教育面では各地に学識者がいて子弟を集めて教育を行っていたようです。珠洲郡西海村時代の資料では、清水では堂前仁兵衛および別家仁右衛門、片岩では海蔵寺住職、仁江では角花清左衛門、真浦では吉田幸治、高屋では矢部太平、高屋刀禰、本多藤四郎、狼煙では今村長右衛門、大谷では枝日吉左衛門、川岸順隆、橋本與三郎、石田嘉之、刀禰田才太郎、大井源三郎、馬緤では守禪庵良壽、上田捨蔵という諸先生がいた記録があります。皆少数の子弟を集めて、伊呂波、名頭、實語教、庭訓往来等の読書と珠算を教えていました。折戸では農家漁家の子弟等は、冬季450日間を了誓寺や覚宝寺等に行き、日用文字を習いました。そして、さらに学問を進める者は、永誓寺や等覚寺に就いて学んだそうです。

<参考文献>
  • 石川県珠洲郡誌 (臨川書店・石川県郷土誌業刊)


                       

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