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禄剛崎灯台

 明治政府は、日本の近代航路標識事業の基盤を整備するために、イギリス公使パークスを通して、スコットランド出身の鉄道技師リチャード・ヘンリー・ブラントン(1841−1901)を雇いました。ブラントンは、日本において、灯台の設計・施工、技術者の養成、業務規則の制定などを手がけ、「日本の灯台の父」と呼ばれました。
 明治16年7月10日初点灯の禄剛崎灯台は、ブラントンの設計を踏襲したものではあるものの、日本人の手による最初の洋式灯台であり、「国産の証」である菊の紋章が、灯台正面の記念額にに掲げられています。

禄剛崎灯台

 能登半島最先端の禄剛崎は、内浦と外浦の分岐点であり、古くから烽火が焚かれた要所でした。上述のように、この海域は海難事故が多く、明治政府も日本海航路の要として灯台設置を決めたのであります。
 灯台の石材は、穴水町甲地区から切り出し、海路を小船で運搬したそうです。岬の斜面に索道を設けて、標高36mの台地まで人力で引き上げるという難工事でした。
 灯塔の高さは12m、三角形のガラス板を幾何学的に組み合わせた巨大なレンズはフランス製で、3秒毎に明滅して、約35km先まで光を届けることができます。

 狼煙では、明治以来、灯台守を職業とする者が続きました。その一人である小坂長之助は、明治33年の禄剛崎灯台看守助手を出発点として、美保関(島根県)、烏帽子島(福岡県)、大立島(長崎県)などへ妻子とともに赴任して、昭和3年(1928)、伏木(富山県)で生涯を終えたという記録があります。尚、この小坂長之助氏は、今回、現地調査でお世話になった小坂正彦様の御先祖であるそうです。
 太平洋戦争末期には、当時、灯台看守だった秋谷豊紀によると、空襲を避けるために、灯塔をペンキでまだらに着色して、枝のついた真竹でまわりを囲んで木の枝や葉をかぶせて隠したそうです。
 その後も長く灯台守の常駐体制によって守られてきたのですが、昭和38年(1963)4月に、ついに無人化されました。奥能登にあって120年余の風雪に耐えてきた禄剛崎灯台は、今もなお現役の航路標識であるとともに、明治の面影をとどめる貴重な近代化遺産と言えます。

<参考文献>
  • 石川県珠洲郡誌 (臨川書店・石川県郷土誌業刊)
  • 珠洲市制五十周年記念 珠洲のれきし


                       

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