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狼煙村出身の浦野家に関する情報を発見

 平成17年4月、戸籍調査に続いて、能登出身の浦野に関する資料を丹念に調べていると、あるとき遂に、 「狼煙村出身の浦野」に関する情報を入手したのです。それは現地調査の旅行へ出発する少し前に、WEB上で、ある記事に目が止まったのがきっかけでした。

 岩手県宮古市には金浜村という小さな村があります。そこに住んでいる方の中に、ご先祖が幕末期のキリスト教禁令のさなかに、 函館で一時期ロシア正教の教義を学んだ(後に改宗した)医者であるという一家があるというです。その医者の名を 「浦野大蔵」と呼び、幕末から明治時代にかけて生きた人物です。

 そして、その浦野大蔵氏に関する記事に以下のように書かれていました。これは宮古市の情報誌 「みやこわが町」のホームページの記事 「宣教師ニコライと金浜」からの一部抜粋です。


ニコライの日記によるとその中の一人である浦野大蔵はイヤコフという聖名で、宮古の近くの郷里金浜村へ逃れたとある。 浦野に関しては詳細は不明だが、能登の狼煙村(のろしろ・現石川県)出身で、 布教などの際に立ち寄った金浜村に宿を取り、そこで知り合った女性と結婚したことが縁で、宮古に移り住んだという。


 この浦野大蔵については、沢辺琢磨、酒井篤礼とともに、日本でのロシア正教最初の信者として、いくつかの新聞や郷土史でも取り上げられています。 尚、沢辺琢磨は土佐藩士であった坂本龍馬の従弟です。

 私は現地調査として珠洲へ出かける数日前(平成17年5月2日)に、この記事を出している編集局に問い合わせてみました。 編集長の方が対応して下さって、子孫の方がおられるので直接連絡を取ってみるが、連休中なので、返事は遅くなるかも知れないとのことでした。


月刊みやこわが町 さま

はじめまして、ホームページを拝見してメールを送らせていただいております。
私、浦野と申しますが、幕末期から明治の歴史を調べていたところ、「みやこわが町」さまのホームページ中「宣教師ニコライと金浜」で浦野大蔵氏が石川県「狼煙」出身であるという記述を見つけました。

(中略)

実はつい最近、私の先祖は石川県の「狼煙」出身であることが分かりました。明治維新後に北海道に入植したらしいのです。先祖の戸籍を辿れる限り調べたところ、少なくとも幕末1800年代初期から明治初期まで数世代にわたって、狼煙で暮らしていたようなのです。そこで、全く同郷ということで、もしかしたら浦野大蔵氏と何らかの関係があるのではないかと思いました。しかし、残念ながら先祖の墓は勿論、檀家になっていた菩提寺すら親族一同誰も現地のことを知りません。

ホームページを拝見した限り、浦野大蔵氏は明治元年には28歳で函館でニコライから洗礼を受け、明治26年に53歳で金浜でニコライと再会していたようですが、この情報から浦野大蔵氏は天保11年(1840)生まれであると思われます(※注1)。これは私の高祖父、高祖叔父がそれぞれ文政12年、天保12年生まれなので、この時代に狼煙で暮らしていたのではないかと思いました。

実際、私の行った戸籍調査でも名前の分からない兄弟や親族がいましたので、もし可能ならば、金浜におられる浦野大蔵氏の御子孫の方に狼煙時代のことで、ご存知のことがないか伺うことはできませんでしょうか。尚、私の高祖父の名は「浦野興平次(※注2)」、高祖叔父の名を「浦野立三」といいます。

お返事いただければ幸いです。何卒よろしくお願いいたします。
このような突然のメール、失礼いたしました。

※注1: 後日、浦野大蔵は天保12年生まれであることが分かります。
※注2: この電子メールを書いた当時は、戸籍に記載された「浦野與平次」の「與」の字を「興」と誤解していました。後に訂正の連絡をしています。



 実は、当初この記事を見たときは一瞬驚きましたが、幕末期まで調べた先祖の戸籍にも浦野大蔵という名前がないことから、ただの偶然かと思っていました。しかし、現地調査の結果、狼煙村で浦野の姓を名乗っていたのは、どうやら一世帯だけだったらしいことが分かったので、再びこの浦野大蔵氏との関係を気になり始めていました。

<参考文献>
  • みやこわが町ホームページ


                       

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