サイトマップ 掲示板 浦野家の歴史と系譜

                       

浦野一族の滅亡

◎浦野一族の滅亡
 加賀藩当局は、藩主前田綱紀を通して、会津候の保科正之や幕府の老中とともに浦野孫右衛門一族の処分を協議しました。保科正之は会津藩主であった3代将軍徳川家光の弟で、かつ保科正之の娘は綱紀の正室でもありました(すなわち、保科正之は綱紀の義父)。当時、綱紀は会津候から後見を受けていたようです。

 そして、寛文7年8月19日に藩当局から判決が下りました。以下に判決の内容を記しますが、浦野一族は、断罪を持って結末を遂げるものであり、刑量は極めて苛酷なもので、切腹、斬首、流刑、追放などによって完全に滅亡させられてしまったのです。

 八月十九日、長連頼の子元連に剃髪蟄居、その臣浦野孫右衛門以下に切腹を命ぜられる。

 「菅家見聞集」
一、 長九郎左衛門家来、去年より申分有之處に、今年肥後守政行公御談合に而、長左兵衛剃髪蟄居、家来は八月廿九日(※)切腹被仰付。是江戸より爲御使岡嶋甚七を以被仰渡。
※廿九日は十九日の誤りと思われる。

 「長氏文書」
浦野孫右衛門 八月十九日切腹被仰付
浦野兵庫 浦野孫右衛門子 同上
阿岸掃部 浦野孫右衛門二男 同上
駒沢金左衛門 浦野孫右衛門三男 同上
宇留地平八 浦野孫右衛門聟 同上
阿岸友之助 浦野孫右衛門四男 四月十九日自害
中村八郎左衛門 浦野孫右衛門弟 八月十六日、越中五ヶ山へ流罪
關左近 浦野孫右衛門聟 九月六日追放
櫻井次郎兵衛 浦野孫右衛門聟 同上
是清傅右衛門 浦野孫右衛門聟 四月二十五日自害
土屋八左衛門 浦野孫右衛門従弟 九月六日追放
田屋六郎左衛門 關左近妹聟 九月六日追放
仁岸權之助 永江義助聟 八月二十六日五ヶ山へ流罪
仁岸權左衛門 九月七日追放
永江義助 浦野孫右衛門従弟 九月六日追放
田邊七郎左衛門 村井七兵衛聟 九月七日追放
岩間覺兵衛 九月七日追放
伊久留八丞 中村八郎左衛門聟 八月二十六日五ヶ山へ流罪
村井七兵衛 伊久留八丞弟
長谷川吉右衛門 九月六日追放
粟津十兵衛 阿岸掃部子 九月六日扶持放
平井六左衛門 土屋八左衛門子 九月六日扶持放
飯坂源左衛門 浦野孫右衛門孫 九月七日追放
阿岸市丞 九月六日扶持放
岩間三右衛門 岩間覺兵衛子 九月七日追放
永江源五兵衛 永江義助子 九月七日追放
關惣右衛門 關左近子 九月六日追放
田屋才之助 田屋六郎左衛門子 九月六日追放
仁岸權右衛門 九月六日追放
仁岸友兵衛 九月六日扶持放
井邊小二郎 九月六日扶持放
(下略)

 「長氏文書」
寛文七年八月十九日從綱紀公岡島甚七を以て九郎左衛門へ仰渡さる。
長伊左衛門方にて
阿岸又十郎 十五歳 殺害介錯人 淺野新平
宇留地七郎 十二歳 天野甚七

宇留地平八明家にて
浦野右衛門 八歳 殺害介錯人 師孫右衛門
浦野三十郎 四歳 師孫右衛門
阿岸三十郎 十三歳 萱津藤兵衛
阿岸權十郎 十一歳 酒井平右衛門
阿岸六十郎 九歳 此木宗八
阿岸七十郎 七歳 上野彌八郎
阿岸鍋吉 八歳 上野彌八郎
宇留地又太郎 十歳 小川平八
駒澤才蔵 二歳 小川平八
 〆十一人

從公儀檢使恒川監物・石屋孫市、御目付樫田三右衛門・加藤八郎右衛門。
自分(※)より檢使松野權兵衛・留倉勘兵衛、目付原傳兵衛・天野新八。
※ここで自分とは長連頼のことである。


 以上のように、浦野一族の男子はわずか2歳の幼児に至るまで斬首されるなど酸鼻を極めるものでした。また、このとき浦野一党に組した十村は検地忌避の罪状で処罰されました。処罰は所磔(見せしめに居住地で磔にすること)または刎首であり、その他の者も追放、入牢などの刑を受けました。

 寛文7年(1667)12月16日に久江村十村の道閑にも判決が下りました。久江村の村端で、彼は磔の刑になり、その3人の子供達(兵八、六太夫、万兵衛)も刎首されました。他にも同じ十村の高田村次郎兵衛と能登部村百姓の永屋(肝煎)が刎首の上、梟首(さらし首)となりました。三階村の池島宗閑、笠師村の太左衛門の二人は翌寛文八年正月に追放となり、能登部村の上野は牢死しました。高田村八兵衛は父次郎兵衛死刑に免じられて死罪は赦され追放となっています。
 道閑が磔になったのは、農民側の首謀者と見なされたからなのですが、後世には、「おいたわしやところやちの道閑様は七十五村の身代りに」と唄われ、義民として村人に追慕されました。

 このように、浦野一族に対して厳しく非情な判決は、隠田問題や検地に反対しただけではなかったものと云われています。鹿島半群であまりにも浦野家の力が強大になっていくのを恐れた加藤派や長家当主自身が、浦野に罪をかぶせて加賀藩の力で浦野一族を滅亡させたとも考えられています。


◎長家の処分と鹿島半群の接収
 長家当主連頼の処分については、長家が名家であることや父祖連龍の前田家に対する忠誠をもって、これまで通り鹿島半群の領有を認められたのですが、連頼の嫡子元連は剃髪蟄居の処分を言い渡され、元連の子千松(尚連)を長氏の嗣子とするように命じられました。ただし、長家が検地を行う際には、藩令に従うこと、諸役人の任免は藩の承認を得ることなど条件が付けられました。元連の廃嫡の理由は明らかではありませんが、浦野孫右衛門一族が連頼に代えて元連を推載しようとしていたことによるのではないかと云われています。

 そして浦野事件が静まった後、寛文11年(1671)年3月24日に長連頼が67歳で亡くなりました。田鶴浜の東嶺寺に葬られました。戒名は、譲徳院鉄山良剛老居士とつけられ、父連龍の横に墓碑が建立されているそうです。
 元連の子尚連が10歳で長家の当主を襲封すると、前田綱紀は鹿島半郡を接収し、代って3万3千石を折紙高とし、この石高に見合う米を実際に給することとしました。つまり知行地直接支配を認めない改作仕法を適用し、禄を与えて前田家に完全に従属する家臣としたということです。長家は天正8年に織田信長から鹿島半群を与えられてから、約90年間も治めてきた土地を離れることになり、金沢に引き上げました。もともとは浦野の勢力を削ぐために加藤派や連頼が策謀し、加賀藩の力を借りたのでしたが、結果的に特権の喪失とともに、長氏の藩内における相対的地位もかなり衰えたのでした。

 鹿島半郡の長氏の独立的な支配は、このようにして終焉を告げました。そして鹿島半群は、ついに加賀藩に領有されることになり、藩は、領内に待望の改作仕法を実施しました。その結果、それまで3万1千石であった鹿島半群の石高が一気に5万5千石の2倍近くに跳ね上がり、2万4千石が加賀藩のもうけとなりました。当然、領民に課せられる年貢もこれによて計算されたため、百姓の生活は厳しさを極めることとなりました。前田家加賀100万石の権威は、この改作仕法の成功にあったとも言われるそうですが、農民の立場からは圧政のもとの搾取であったように思えます。

 加賀藩にとっては、浦野事件、ひいては長連頼の死は領内全域に改作仕法を完成させる千載一隅の好機だったのです。前田綱紀が一陪臣にすぎない浦野孫右衛門一族を処分するために、会津候や老中に相談していることなどを考えると、浦野事件を単なる家中騒動に終わらせず、政治に利用しようとしたことが推察されます。事実、それが鹿島半群の接収と改作仕法の完成に結びついたのです。


浦野一族の跡
 浦野一族及びその一党は、加賀藩により抹殺・流刑・追放にされ、わずか2歳の幼児に至るまで殺害されたので、長家を維持することはできたものの、浦野一族はは滅亡してしまいました。田鶴浜町字三引の曹洞宗亀源寺には、浦野家ゆかりの者によって祀られた浦野孫右衛門家一族19名の位牌が安置されているそうです。


<参考文献>
  • 加賀藩史料 第4編 (清文堂)
  • 田鶴浜町の歴史 上巻 (田鶴浜町史編纂委員会)
  • 御家騒動読本 (新人物往来社)
  • 石川県大百科事典 (北國新聞社出版局編 1995年)
  • 珠洲市制五十周年記念 珠洲のれきし
  • 畝源三郎のホームページ


                       

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