サイトマップ 掲示板 浦野家の歴史と系譜



武田氏家臣時代(戦国期)

■武田氏と浦野美濃守友久
 上田・小県地方の戦乱は応仁元年(1467)から翌年にかけての海野氏と村上氏の争いによって表面化しました。天文10年(1541)5月に武田信虎諏訪頼重、村上義清とともに連合軍を組んで、信州海野平で海野、禰津、矢澤の三氏を撃破しました。この合戦は、海野氏をこの地から追うとともに、地方豪族の再編につながる大きな転機となりました。

 戦国時代の武田氏の事績をうかがうための最も貴重な資料とされる「高白斎記」(武田信玄の近臣高白斎駒井政武の日記)によると、「天文十年(1541)5月に武田信虎は諏訪頼重・村上義清とともに信州海野平の海野棟綱を攻め、これを破った」とあります。このとき、海野棟綱は上州平井に逃げて、関東管領上杉憲政に頼りました。また、同じくこの戦いに敗れた禰津元直、矢澤綱頼らは武田に下りました。そして、そのとき小県浦野地方は村上軍の軍勢に攻撃されたため、結局、浦野は村上の支配下となりました。

 しかし、その年、甲斐の武田信虎は息子の晴信(後の信玄)に追われました。新しく武田家の当主となった晴信は、諏訪、上伊那方面を平定し、引き続き信濃経略を進めていました。当時、小県の豪族はいずれも村上氏の勢力下にあったのですが、浦野城主の浦野美濃守友久は一人早く武田氏に通じていたと云います。


 長野県上田市の曹洞宗東昌寺には、浦野氏の宝篋印塔と伝えられる6基が並んでいます。東昌寺は天文22年(1551年)に浦野美濃守友久によって中興開基されました。また、高野山蓮華定院は信濃国、特に小県・佐久地方のゆかりの寺(宿坊)です。上の系図は、東昌寺の宝篋印塔および蓮華定院の過去帳などから考察されたものです。
 東昌寺を中興開基した浦野美濃守友久は、戒名を「昌樹院殿大松玄久大居士」として、武田信玄の一字を法号に贈られています。さらに、武田氏系図には、武田信虎の娘(信玄の妹)に浦野氏室とあり、宝篋印塔にある「蘭庭妙芳」こそ、この浦野美濃守友久内室と云われています

 浦野美濃守友久は、天文17年の上田原合戦では武田方にあって、めざましい武功をあげ、このときの様子が「八月晴信上田原に出陣し、功を収めるもの専ら浦野氏の内応による」と文献「信陽雑志」に記されています。また、美濃守友久はこのときの働きで武田晴信から以下の感状と備前長船の太刀を拝領したそうです。

今辰尅於信州上田原地頚壱討之捕神妙々々弥可抽忠信事肝要也執達仍而如件、右同日未尅生捕壱人甚感入候猶再忠可勤候仍而如件
   天文十七戊申
   八月二十四日                        晴信 花押
                                     浦野兵部とのへ
(現代語訳)
本日午前八時上田原において首一つ討ち捕り、誠に感服した。益々忠節を尽くすように。また同日午後二時生け捕り一人甚だ感心である。一層忠勤を励んでもらいたい。

 討ち取り及び生け捕りの敵の名前は不明ですが、信玄からこのような感状と併せて太刀を賜っていることから、いずれも名のある敵武将だったと思われます。太刀は備前長船住助久造で、「永仁睦年(六年)五月日(1298)」という銘があって、刃渡り76.3cmの業物です。また、峰に7箇所実戦で刀を受け止めた傷があり、これは「峰傷」といって、かなりの腕前でないと出来ないと云われています。この峰傷は、信玄が実戦で作ったものなのか、拝領後に友久が作ったものなのかは不明ですが、友久は相当な剣の使い手であったと思われます。
 さらに、「高白斎記」によると、この後にも天文22年に浦野領に隣接した八木沢八百貫、福田百貫を宛行された記録が残っていて、しばしば手柄を立てていたようです。
 尚、上の感状で、浦野兵部とありますが、浦野系図によると、浦野美濃守友久は源之丞、のちに兵部少輔とも称しています。


■川中島合戦と浦野城
 武田氏と上杉氏の数次にわたる川中島合戦にも浦野氏が参陣していた記録が残されています。「新編会津風土記」によると、天文24年7月19日、川中島の第2回目の対陣において、一族の浦野新右衛門は敵大将を討ち取った武功によって、信玄から感状を受け取りました。また永禄4年の両雄相打つ川中島合戦では、「霧の深い中信玄公信州先方浦野という弓矢巧者の侍を召し物見させ給う云々」と文献「甲陽軍艦」にあります。この信州侍の浦野某については、浦野民部や浦野左衛門尉幸次など、諸説あって人物の特定はできないが、浦野一族の中の名のある武将であったことは間違いありません。
 武田信玄は部下の武将たちに忠誠の証として、しばしば起請文を神前に奉納させているのですが、永禄10年8月7日に奉納された生島足島神社の起請文は有名なものです。その中に浦野左衛門尉幸次単独のものと浦野被官衆6名連名(浦野宗波軒信慶、同弥三左衛門尉政吉、同新左衛門尉貞次、同新右衛門尉幸守、同源右衛門尉長種、同久右衛門尉吉忠)のものがあるそうです。浦野左衛門尉幸次は浦野一族を代表していて、浦野城の城主であったと考えられます。これら一族は、信玄や勝頼に従い、各地の合戦に出陣したものの討ち死にした者もあり、天正10年武田氏の滅亡に当たり運命を共にした者もいました。運良く生き延びた者もいたようですが、ことごとく追手を逃れて離散したと云われています。


<参考文献>
  • 浦野一族 (日本家系協会)
  • 浦野文書と一族の系譜 (朝日印刷工業)
  • 浦野一族小史 (浦野氏ゆかりの会)



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