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長氏と浦野孫右衛門 |
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加賀藩の老臣長氏の先祖は、元来は能登の国の人で、古くは室町幕府の奉公衆でした。その遠祖は、鎌倉幕府の御家人長谷部信連で、源頼朝から能登の地頭職に任ぜられたものだと云われています。能登守護畠山氏の被官となったことで、次第に頭角を現してきて、戦国末期には、畠山氏の重臣に加わっていました。天正5年(1577)9月、畠山氏の居城であった七尾城が上杉謙信によって陥落させられ、畠山氏は滅亡します。長一族は、七尾城に籠城していましたが、落城の直前に、謙信に内通した遊佐続光に、当主綱連を始めとして、全て殺戮されました。 長一族の中で、一人生き残ったのが、安土城の織田信長に救援を求めに走っていた綱連の弟連龍でした。やがて、謙信が死ぬと、能登は織田氏の支配下に入り、天正8年、前田利家が能登一国を与えられ、長連龍はその与力を命じられ、鹿島半郡を領することになりました。これが長家が加賀藩前田氏の重臣となる嚆矢であります。その後、前田家の家臣となった連龍は3万2000石を禄し、慶長5年(1600)に隠居し、元和5年(1619)2月、知行所の能登田鶴浜で74歳をもって没しました。長家は嫡子好連(よしつら)が継いでいたのですが、慶長16年に父に先立って没しました。このため、好連の弟連頼(つらより)が元和5年4月、鹿島半郡および加恩地2000石を与えられ、長氏を相続しました。連頼は天正10年生まれで、幼名長松丸、左衛門次郎、左兵衛、安芸守を経て、九郎左衛門を名乗りました。 当時、一般の加賀藩士は、加賀・越中・能登3ヶ国の領内各所に知行地を分散して指定されていました。ところが、長氏だけは信長以来、鹿島半郡を一括して領したので、金沢に屋敷を構えつつも、鹿島郡田鶴浜にも本拠を持っていました。家臣団は地方知行を与えられて、直接農民を支配していました。鹿島半郡においては、長連龍が織田信長から与えられた領地として、江戸時代初期まで長一族の傘下にあったという由緒のために、後に前田利家が長連龍の家臣になってからも、そこだけは長氏の支配下にあったといいます。その来歴から、鹿島半郡で独自の領地を形成して、加賀藩前田氏の家中の中でも、特殊な形態を有する家になっていました。それゆえに3代藩主の前田利常が、小松城にあって加賀・越中・能登の3ヶ国の所領について改作仕法を施行し、検地を行なっても、この半郡には手を入れることはできませんでした。前田氏の行政にとって画龍点睛を欠くものであり、前田家による中央集権化の癌であったといえます。そして、浦野事件とは、この長氏の家中で起きた騒動であります。 能登と金沢に分かれて居住する長家の中で、能登在住の国家老として采配を振るった有力家臣に浦野一族がいました。浦野一族は、長家累代の家臣であり、慶安から寛文年間にかけて、田鶴浜に本拠を構えていました。 長連龍の2代目の好連は、穴水城を放棄して鹿島郡田鶴浜に居館を移し、金沢に住みました。この結果、長氏の家臣は鹿島郡に住む家臣団と金沢に住む家臣団の2派に分裂し、相互の間に次第に違和感が生じてきました。好連の没後、弟の連頼が立つと、加藤采女が金沢の家老として采配を振り、田鶴浜では、高田村旦那垣内に居館があった浦野孫右衛門信里が国家老として采配を振るいました。中でも毎日主君連頼と顔を合わす加藤采女は次第に長氏の中枢を握っていくことになりました。こうして、加藤側は官僚化していき、浦野側は土着性を強くし在地の有力農民層との一体化が強められていきました。 浦野孫右衛門信里は長氏筆頭の重臣であり、歴代の功績によって慶安より寛文にかけて在地家老として実権を有していました。しかし信里が、ここまで重用されるまでには実は、長年の苦難の道程がありました。 信里の先代浦野孫右衛門信秀は、慶長16年(1611)に長好連が病死したために、家督相続問題で連頼を当主と定めた功績者でありました。好連には子がなかったので、家臣の高田与助が、連龍の娘2人に養子を迎えて連頼と3人で領地を分配する案を出しましたが、田鶴浜に在住する家臣等がこれに同意せず、孫右衛門信秀も領地分配には反対でありました。信秀は、高田与助などの不意打ちの陰謀を聞きながらも身の危険をおかして金沢へ出向き、前田家の重臣本多政重(5万石で禄高は家臣の中で最高)と会見し、その援助を得て、鹿島半郡を分けることなく連頼1人に相続させることに成功しました。ところが、連頼は、高田与助の養子で理財の才に富んだ高田内匠を重用したのですが、寛永11年(1634)に、この高田内匠が長家歴代の重臣を排除して、自分の勢力を伸ばすために姦策をめぐらしたことによって、信秀を讒言しました。これにより信秀は連頼の怒りに触れ、長家を退散させられることになりました。 その後、信秀は加賀藩士であった阿部甚左衛門の取り持ちによって、伊予候松平隠岐守定行に認められて2千石で仕えました。信秀の子である浦野兵庫(後の浦野孫右衛門信里)も、一時は高野山に隠れましたが父に続いて伊予候に取り立てられています。 高田内匠は、浦野追放に成功してからは、自分の意に従う者のみを推挙し、専横な振舞いが多く、家政が大いに乱れました。長家譜代の有力家臣の1人である加藤采女は、この状態を心配して、主君連頼を諌め、寛永19年(1642)に高田内匠を排斥し、浦野の復仕に努めました。この時、浦野孫右衛門信秀の子の兵庫が孫右衛門を名乗っていました。このことがあって、長連頼は、ようやく家中の動向を知ることになり、京都に隠棲していた加藤采女を帰参させて、伊予候に仕えていた浦野孫右衛門も旧主の下に戻すように努力しました。伊予候は孫右衛門を手放したくありませんでしたが、前田利常の依頼で慶安元年(1648)に長氏に復仕させたのでありました。 浦野孫右衛門信里は長家の家老で、以前の禄高に50石を加禄し700石を受け、その子兵庫には別に200石が与えられました。また長氏の重臣で嗣子がなく絶えた阿岸家を次男・掃部に継がせ400石を受けさせました。 |
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