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先祖供養

■墓所と等覺寺への訪問
 5月9日は、能登での最終日です。珠洲に4泊しましたが、何だがもっと長い間、ここにいたような気がします。 現地調査は予想をはるかに上回る大収穫でした。何より当家の墓石が現存していたことが信じられません。ここまで来て本当によかったと、 妻と2人でこの調査旅行を振り返りました。
 荷物をまとめて、おばさんにお別れを言って、宿を出ました。今日は、等覺寺で先祖供養をしていただきます。その前に一度、墓所に寄って、 先祖にお花をたむけ、お線香をあげました(右の写真)。

 等覺寺へ行くと、住職が再び過去帳を持って部屋に来られました。そして、一昨日、私たちがお寺を後にしてから、もう一度じっくり調べてみたと言い、 過去帳に記載されていた浦野家の先祖を改めて拾い出しておいていただけました。江戸時代の先祖については、最初の訪問時に調べたものと変わりませんでしたが、 明治時代に亡くなった先祖については、新たに2名が分かりました。

 住職と話をしていると、しばらくして覺寳寺の住職が私たちのいる部屋まで来られました。覺寳寺とは、等覺寺と同じく川浦町にある真宗大谷派のお寺です。 もともとは等覺寺住職の弟子であった栄立によって、宝暦2年(1752)に創始され、当時は等覺寺の末寺だったそうです。 お墓が残っていた事情などを改めて聞いていただいた後で、当家先祖の供養をお願いいたしました。住職から本堂の方へ通されました。 天井が高く、ひんやりとした空気の本堂は、荘厳な雰囲気で、かつて私の先祖もこの本堂建立の寄付をしたのかと思いながら、柱に手を当ててみました。 本堂中央には、2枚の座布団が敷かれていて、広い本堂にはあまりに小さく感じました。阿弥陀如来立像の前に座り、しばらく待っていると、 両寺2人の住職が袈裟姿で本堂に入って来られました。本堂に響く御経は、実にすばらしく、全身にビリビリと、 身体の下から上へ電流のようなものが駆け抜ける感じを覚える瞬間が何度もありました。長いお経が終わると、御焼香をして本堂を出ました。 私たちのために長い時間を費やしていただいた住職に御礼の挨拶を済ませ、「きっとまた来ます」と言って、お寺を後にしました。 そして、最後に見納めに、お墓に立ち寄り、先祖にお別れを告げた後、私たちは狼煙を出発しました。


■狼煙から金沢へ
 珠洲に来るときは、能登半島の内浦を回って来たのですが、帰りは輪島経由で外浦を回って帰りました。 奥能登地方の特に外浦沿岸では、古くから製塩が主要産業であり、かつては多くの塩田が見られたそうです。 途中にこの地方で作られた珠洲製塩を運ぶための北前船の船着場を見ることができました(右の写真)。

 狼煙から輪島までは車で1時間ほどで着きました。せっかくだから塗物を見てみようと、お店に入ってみました。 さすがは輪島塗、奥の深いすばらしい色の器が見れましたが、とても一般庶民が手の出る代物ではありませんでした。 しっかり目に焼き付けて、頭の中で観賞して楽しむことにします。

 金沢には16時ごろに到着しました。宿に荷物を置くと、兼六園のそばにある石川県立図書館に向かいました。実は今回の調査前に、図書館には、あらかじめ電話で事情を説明し、参考となる郷土資料を用意していただけるようお願いしていました。カウンターで用件を話すと、奥から担当の方がでてきて、 早速資料を渡してくれました。それ以外にも個別に資料を閲覧し、多くの情報を得ることができました。

 5月10日は調査最終日です。金沢の滞在は午前中までにして自宅に帰ります。前日、河崎様から古文書などの資料は金沢市立図書館の方が豊富だと教えていただいたので、最初に石川県立図書館に行って、前日に途中だった資料収集を終わらせると、すぐに金沢市立図書館に向かいました。こちらは歴史資料専門の資料室があり、確かにその情報量は膨大でした。しかし、時間があまりなかったことと、係の方に尋ねたところ、 狼煙地方の古文書はなかなか残っているものが少ないということで、今回は大きな収穫はありませんでした。次回来たときにでも、じっくり拝見したいと思います。

<参考文献>
  • 石川県珠洲郡誌 (臨川書店・石川県郷土誌業刊)
  • 珠洲市史 (2) 資料編(中世・寺院・歴史・考古) 石川県珠洲市役所


                       

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