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鹿島半郡の検地騒動 |
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◎加藤一派との対立 浦野家は、長家の封地田鶴浜村(現田鶴浜町)に在住し、浦野孫右衛門の兄弟や子は、多くが家中の有力家と縁組を結び、また、付近の土豪と婚を通じて族団的徒党を結ぶなど、一族は次第にその勢力を拡大していきました。領内の改作方奉行以下、十村(※)・肝煎から信頼されるようになり、浦野に従う者が多くなっていきました。在地家老の浦野にくみすることは、何かと便宜がよく、取り立ててもらえるとなれば当然の成り行きと言えました。 しかし、金沢居住の家臣達は、これを面白がるはずもありません。家老の加藤采女を先頭にして、反浦野を唱え互いに対立していくこととなったのです。この加藤采女は高田内匠騒動のときに、浦野を長家へ戻すことに尽力した加藤采女の子です。加藤方は、常時金沢屋敷にある長氏の当主連頼を動かし、浦野を暴く運動をすすめました。先代の浦野孫右衛門信里と加藤采女は互いに助け合って長家に尽くしたのに、子の代になると対立しあっていたのです。連頼は、凡庸な主君であったので、若い頃には良臣の言を聞いて治安につとめた実績は多少ありましたが、この頃になると家臣間の争いさえもおさめえませんでした。事態が悪化してきた頃、浦野派が、この機会に連頼を廃して連頼の長男元連を立てる計画をしたと云われています。 ※十村(とむら):加賀藩特有の役職で、幕府領や諸藩領における大庄屋や大名主に相当する。 ◎鹿島半群の検地騒動 浦野孫右衛門と加藤采女の対立が深まる中、ある頃から浦野孫右衛門が、十村ら長百姓と力を合わせて新田を開き、それを私有しているという噂がたちました。そしてそのために、寛文5年(1665)2月に長連頼は、調査の意味を兼ねて鹿島半郡の新開地検地を行おうとしました。農地を新しく測量すれば、検地帳に記載されている田の面積から余分の田が発見され、それによって、また年貢が増えるので、ただでさえ苦しい生活の農民はこれを好みませんでした。そこで、これを加藤采女一派の策動と考えた浦野孫右衛門は、同年3月27日、検地は百姓の騒動をきたすものなので取りやめ下さるようにと「検地御詫」を主君連頼の子・元連を中にたてて提出しました。しかし、加藤派に動かされている連頼は同年4月2日、三宅善烝、三宅新七の両人を検地奉行に命じました。かくして9月24日検地奉行は、関左近、関治左衛門を帳付に、吉田友兵衛を添帳付に命じ、小原次郎右衛門、小原兵右衛、藤田半助、不破武兵衛を検地算用仕立方として、鹿島路(現羽咋市)から曽称(現羽咋市)に至る一部の検地を開始しました。 ここに至って、浦野派の23名は団結して誓詞文を書いています。起請文は次のようなものでした。
この誓詞文に書かれている九郎左衛門とは長連頼のこと、また、左兵衛とは長元連のことです。検地は連頼の命令によって開始されたのですが、検地に反対する浦野派が、誓詞文の最初に「連頼や元連のために」と述べているのは、連頼のかげに加藤派の企みがあって、それによって検地が行われようとしていると判断したからであります。 浦野派は、続いて元連と連携をとり、また久江村(現鹿島町)の園田道閑、能登部村(現鹿西町)の上野、高田村(田鶴浜町)の二郎兵衛、三階村(現七尾市西三階)の池島宗閑、笠師村(現中島町)の太左衛門などの十村・肝煎の有力農民を煽動して検地中止を働きかけました。連頼は長家中の内部問題としてこれを治めることができず、鹿島半郡の空気は次第に険悪になっていきました。 ◎加賀藩の介入 連頼は、この事態を重くみて、独力では処理不能と判断し、寛文7年(1667)2月15日、加賀藩の重臣である本多安房守、横山左衛門、前田対馬、奥村因幡、今枝民部を通じて、浦野孫右衛門一派の罪状を連記した覚書をしたためて藩当局へ提出しました。 そのとき加賀藩は、5代藩主前田綱紀の時代でした。長氏の当主連頼は凡庸な人物だったこともあって、綱紀は、長連頼と長氏家臣団との相克の隙を突いて、長い間手をつけられずにいた鹿島半郡を一気に直接支配しようと考えていました。この事件により、ようやく解決する好機がやってきたのです。 藩は直ちに罪状詮議を開始し、まず阿倍甚右衛門、松崎十右衛門2人に、浦野孫右衛門を尋問させて罪状を調べ、同年3月2日に逮捕に乗り出し、浦野一族の9人を家臣の各邸で禁固としました。その上で、参勤交代で江戸滞在中の前田綱紀に報告しました。
またこのほかにも一味徒党として捕らえられた者も多数いました。 3月2日夜には、千田八郎平が領地に出張し、翌日には浦野に組する十村などを能登部村算用場に呼び出して取り調べを開始しました。その結果、高田村の十村・二郎兵衛、子の八兵衛、笠師村の十村・太左衛門、三階村の十村・池島、能登部村の十村・上野らを田鶴浜の獄に入獄させ、久江村の十村・道閑、子の兵八、六太夫、万兵衛、能登部村の小百姓・永屋を能登部の獄に入れて取り調べがおこなわれました。 裁判の内容は明らかにされていませんが、加藤派のもとで、行われたものですので、公平な裁判がされた可能性は低かったと思われます。しかし、これに対して、浦野孫右衛門は異を唱えることはなく神妙に応じたようです。浦野は加藤が今回の逮捕の主導者と思っていたのかもしれません。実際には、主君である長連頼が前田家に通報してこの様な事態に至ったのですが、浦野孫右衛門、浦野兵庫、阿岸掃部の3人は、「自分たちがどのような処罰を受けようとも構わないので、田地を長連頼が相続できるよう取り計らって頂きたい」といった大変な主君思いの言葉で応じたそうです。 |
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